tella Maris 3
ステラ・マリス 3

 「解き放て」

 声が聞こえました。

 「星の海は溢れたり」

 耳元で囁かれたような、幽かな響き。

 「すべてを押し流せ」

 それは、乾いた大地に降る雨水の如く、心に深く沁み渡り——

 「汝が心の侭に」

 若者は崩れるように片膝を付きました。兵士の目には、そんな彼の姿が、狼に追い詰められた若鹿のように映ったことでしょう。
 ところが次の瞬間、兵士は我が目を疑いました。絶望に囚われたかに見えた若鹿は、突如として大地を蹴り、高く跳ね上がったのです。
 そしてしなやかな刃が、まるで獲物に襲いかかる蛇のように閃いて——寸分違わず、兵士の喉元を抉りました。
 兵士は仰け反ったかと思うと、やがてゆっくりと倒れました。
 ガシャン
 その姿を見て、荒い息をしていた若者は息を呑みました。兵士の胄の下には、そこに在るべき首が無かったのです。否、中身など初めから無かったのかも知れません。胄の奥で光っていたように見えた目も、戦場を彷徨う鬼火だったのかも知れません。
 けれども、確かに実在するものもありました。兵士が手にしていた首——コロコロと転がった、戦友の首が。
 若者は震える足を引き摺るようにして、首に近付きました。これが幻であって欲しい、もしも悪い夢ならば早く醒めて欲しいと、切に願いながら。
 しかし、夢魔はそう容易く解放してはくれませんでした。
「アル」
あの濁った瞳が、再び彼を捉えたのです。
「僕をプラキドゥスに沈めておくれ」
若者は鋭く息を呑んだ息を持て余しました。全身から厭な汗が滲み出るのを感じ乍ら、身動きができません。
「プラキドゥスに……?」
彼は美しい故郷の風景を思い浮かべようとしました。世界中のありとあらゆる青を鏤めた海と、それを鏡に映したような空を——
 ところが、どんなに思い出そうとしても上手くいきませんでした。彼の脳裏に焼き付いた故郷の海は、今目の前にある二つの目のように濁っていたのです。
「お願いだ」
若者が返事をしないので、虚ろな双眸が焦れたように、ぎらぎらとした光を放ち始めました。
「プラキドゥスに……」
 光は螺旋を描いて、目の奥を突いてきます。彼はその光に邪悪さすら感じ初めていました。しかしながら、目を逸らせないのです。
「アル……何故返事をしない」
終に光は青い炎となって燃え始めました。そう、胄の奥で光っていたあの鬼火のように——
「……止めてくれ」
若者は歯を食いしばって、灼けるように痛む瞼を強引に閉じ合わせました。
「済まない」
乾ききった頬を、涙が伝います。
「済まない、済まない……アビオル」
何度も詫びながら、彼は逃げ出しました。友の死からか、戦場からか、それとも平常心を保てなくなった自分自身からか——
 その時、再びあの不気味な足音が響き始め、行く手を阻みました。