tella Maris 2
ステラ・マリス 2

 若者は取り憑かれたように走り続けました。
 火薬の炎が舐めて焦がした大地を。断末魔の叫びと、愛しい者の名を呼ぶ幽かな囁きと、命の灯火が消え去る、最後の吐息の中を。
 あらゆる感情が渦巻く大気の、何と重いことか——彼は激しく喘ぎました。熱気に晒されてひび割れた口をぱくぱくと、淀んだ水の中の魚のように開いて、何とか呼吸をしようとしました。けれども肋骨は軋み、肺は巧く膨らまず、ただ咽の奥でひゅうひゅうと、透き間風のような音が鳴るばかりです。
 それでも尚、彼は走り続けました。しかし何処まで行けども、周囲の景色は何一つ変わりません。燻る大地に剣戟が谺し、呻きの声が這うばかりなのです。
 不図、或る考えが彼の脳裏を過りました。もしかしたら、自分は疾うに死んで仕舞っているのではなかろうか。そして、最期の悪夢に閉じ込められて仕舞ったのではないか。まるで、メビウスの環を永遠に辿るように——
 一度そう思うと、如何しようもない虚無感が襲い、彼は足を止めました。足を止めて、自分の拍動のその早さに驚きました。全身の血管が拡張し、蟀谷の辺りに、圧迫されるような鈍い痛みが走ります。
 ——死して尚、苦しまねばならぬのは、己の業の深さ故か。
 そんなことを思った時でした。
 ガシャリ
 硬い金属音に、彼は素早く振り返りました。煙で朦々とした景色に突如、鈍色に光る影が現れたのです。
(装甲兵か)
彼は、剣の束を更にきつく握りしめました。自分は既に死んでいるかも知れないと思い乍らも、目前の敵に易々と首を取られる積りはなかったのです。
(さあ来い、俺は逃げも隠れもしない)
 ガシャリ
 ガシャリ
 影は近付いて来ました。足音が大きくなると共に、その姿も明瞭になって——
「死に損ないが、まだ居たか」
彼の目に飛び込んできたのは、血で半ば黒く染まった装甲と、同じく血塗られた剣、そしてその手にぶら下げられたもの——
「アビィ……?」
口から漏れた声は掠れていました。彼が見たもの、それは首でした。紛れもなく、彼の友人アビオルの。
「知り合いか? こんな子供を戦に出すもんじゃない」
犬死にするだけだ——と云って、男は首を放りました。
 コロリ
 コロリ
 彼の足下に転がった友は、その目で彼を見たようでした。曾て海のように煌めいていた緑柱石(ベリル)の瞳は、地獄のような光景を映して昏く濁っていました。
「アビィ……」
 彼は全身の血が引き潮のように引いて行く音を聞いたような気がしました。急な目眩に、天地が判らなくなりました。今、自分は立っているか? まだ立っているのか? 
「恐れることはない」
装甲兵はくぐもった声で云いました。鋼鉄の胄の奥で、二つの炎が揺れています。
「すぐにまた会える」
 若者は未だ半ば自失の状態にありました。
 自分は息をしているか?
 心臓はまだ動いているか?
 友の命を奪った剣が、目の前に迫っています。同胞の血と、脂で鈍く光る刃が——
 息はしている。
 心臓も、まだ動いている。
 剣は? 剣はこの手にあるか?
 彼は右の手を握りました。
 熱い——
 その瞬間、彼の心の奥底で、何かが首を擡げました。