tella Maris 1
ステラ・マリス 1

 黄昏迫る頃、大通りの市場は買い物客で賑わっていました。
「さあさあ、お買い忘れはないかい!」
 商人の威勢の良い声に、通りかかった一人の若者が立ち止まりました。若草色の長衣を纏った、導師風の男です。
「景気は如何だい?」
「やあ、先生!」
店主は相好を崩して、酒樽のような身を乗り出しました。すると、若者は少し困ったように笑います。
「僕は未だ師位(マスタ)ではありませんよ」
「でもいずれはそうお成りになるんでしょう——いつもので? 一寸お待ちを」
 店主は若者の返事を待たず、手早く商品を纏めました。
「十クーペ」
と云って、店主は肉厚の手を差し出します。
「安すぎやしませんか?」
「いいんですよ、お得意さまなんですから」
「有り難う」
若者は店主の掌に代金を載せると、商品の包みを受け取りました。
「大いなる流れと共にあらんことを」
「貴方も」

 若者が用事を済ませた頃、日はすっかり傾いていました。
(いけない、早く帰らなくては)
 日没の頃には夕べの祈りがあるのです。彼は小高い丘へと続く道を目指し、足早に大通りを抜けようとしました。
 ところが途中、彼の聡い耳が幽かな歌声を聴き取りました。

 地を這う者よ 恐るる勿れ
 影は内に潜みて恐れを喰らう

 見ると、人通りの絶え始めた街角に、幼い少女が一人佇んでいます。

 地を這う者よ 顔を上げよ
 光はすべてに均しく降りそそぐ

 舌足らず乍らも懸命に歌う少女の前で、若者は足を止めました。

 地を這う者よ 目を開けよ
 影はあらゆる場所に潜んでいる

 少女の足下に置かれた椀に気付いた若者は、懐から白銅貨を取り出して、慎重にそこへ入れました。
 彼への感謝の気持ちなのか、少女の歌は愈、心の底から響き始めたようでした。

 地を這う者よ 耳を澄ませよ
 影はあらゆる場所に潜んでいる

 その時彼は、少女の黒曜石の瞳がきらりと光って、己が目を捉えたような気がしました。

 美しく飾り立てられた賛辞の裏や
 差し伸べられなかった手の中や
 或は汝の心の底の、暗く淀んだ深みにも

 若者は鋭く息を呑みました。突然、目の前の少女が、周囲の景色が、融けるように輪郭を失い始めたのです。
 少女の歌声は、熱した硝子のようにくにゃりと曲がり、どこか遠くで響いていました。
 やがて世界が、彼一人を残して、引く波のようにみるみる遠ざかり——

 「突撃ィ!」

 大気を振わす怒号と共に、激しい剣戟が、まるで警鐘のように頭の中に響いてきました。そして、それに同調するように跳ね上がる鼓動——
 彼は息苦しさに胸元を掴み、喘ぎました。
(思い出したくない)
しかし拒絶すればするほど、悪夢は彼の中に侵入し、その黒い触手を伸ばしてくるのです。
(思い出してはならない……)
 突如、彼は走り始めました。敵が追ってくるからだったのかもしれません。将又、敵を追うためだったのかも知れません。理由など、彼自身にも分からなかったのです。
 ただ、いつの間にか右手に握っていた剣の重さだけが、辛うじて彼の意識を支えているようでした。