tella Maris 9
ステラ・マリス 9

 夕べの祈りが始まった天道院の星堂で、若者は頭を垂れ、導師の説教を聞いていました。否、聞いているように見えるだけで、実際その内容は少しも耳に入ってはいませんでした。何故なら、膝の上で慎ましく組み合わされた手の中の、ずしりと重い鋼鉄の気配が、意識すればするほど現実的なものとなって、彼を闇の底に沈めようとしていたのです。
「曾て我々の剣は、人を殺める為のものではなかった」
雨上がりの陽光の中で聞いた師の言葉が、頭の中で響きます。師は云いました。決して抜かぬ剣、それが天道院騎士の武器であった、と。
「憎しみの連鎖を断ち切るとも、大いなる流れを断ち切る勿れ」
その剣の戒めは、一体何時、何故破られて仕舞ったのか——
 若者は、沸々と湧き出る怒りを鎮めんと、組み合わせた両手に力を込めました。
(争いは結局、憎しみと悲しみしか生まない)
骨張った甲に爪が食い込んでも、彼は力を緩めません。
(そして憎しみと悲しみは再びの争いを生み出す)
断ち切るべき鎖は今も尚、延々と繋がれ続けているのです。
(仮初めの平和の下には、数え切れない程の死が横たわっている)
それは終わり無き環となって、全てを闇に繋ぎ止めているのです。
(我々は闇の囚人だ。光から目を背け、破滅への道を直走る——)
 その時、説教が終わって、導師や騎士を志す少年少女たちが、祈りの歌を歌い始めました。

 地を這う者よ 恐るる勿れ
 影は内に潜みて恐れを喰らう

 変声期前の高い声が、天井の高い星堂を満たします。

 地を這う者よ 顔を上げよ
 光はすべてに均しく降りそそぐ

 若者はゆっくりと顔を上げました。

 地を這う者よ 目を開けよ
 影はあらゆる場所に潜んでいる

 あの夕暮れの日、街角に佇んでいた少女の姿を思い出したのです。

 地を這う者よ 耳を澄ませよ
 影はあらゆる場所に潜んでいる

 決して上手いとは云えませんでしたが、不思議と心に深く沁み込んだ幼い歌声——

 美しく飾り立てられた賛辞の裏や
 差し伸べられなかった手の中や
 或は汝の心の底の、暗く淀んだ深みにも

 そして、彼を見据えた黒曜石の瞳。

 (彼女は見ていた?)

 心の底の深みを——

 若者は殆ど反射的に動きました。祈りの途中であったにもかかわらず、右手の灼けるような痛みを握り締め、海を泳ぐように人を掻き分けて、星堂を飛び出したのです。
 振り返る者たちは皆、何事かと首を捻るばかりでした。
 ただ、一人の年寄りの導師だけが、遠ざかる若者の後ろ姿を穏やかな表情で見送っていました。