tella Maris 10
ステラ・マリス 10

 若者が再びあの街角に立った時、少女は矢張りそこに居ました。

 遥けき彼方に 唯一つ星の在り
 それは真なるもの 満ち満てる世界

 迫る夕闇に紛れて仕舞いそうな、細い高音。

 光が生み出し 影が呑み込みぬ
 生きとし生ける者らの道標

 その繊細な響きは、曾て砕け散った若者の心の継ぎ目に清水の如く沁み通り、確かに流れている血と共に、全身を巡って行くのです。

 道を失い彷徨う者らよ
 汝らは光の中に在りて
 内なる光に気付かない

 若者は懐から白銅貨を取り出して、少女の足下の椀に入れました。
 コツリ
 乾いた木と金属がぶつかり合い、幽かな音を立てました。その途端、少女はふっつりと歌うのを止めました。
「また来てくれると思ったわ」
そう云って若者を見上げた少女の目は、彼を通り抜けて遥か向こうを見ているようです。
 若者は凝と少女の黒曜石の瞳を見詰めました。しかし彼女の目は微動だにせず、矢張り遠くを見ているのです。
「君は目が見えないのだね」
確信的な若者の問いに、少女は無言で頷きました。
「でも僕だって判ったね。話したことも無いのに、」
如何して、と若者が訊く前に、少女は云いました。
「光が見えたわ」
「光が?」
少女はまた頷いて見せました。
「眩い光と、濃い影が」
 影と聞いて若者は僅かに身構えました。一方の少女は彼の緊張を感じ取ったのか、弁明するように云います。
「強い光は濃い影を生む。時に人はその影に魅入られて、光が見えなくなって仕舞う」
彼女の口調は驚く程しっかりしていて、見た目の幼さと食い違っていました。まるで子を諭す母親のようですらあり、若者は己が母を思い出さずには居られませんでした。
「恐れないでアルサール」
母親が最期に残したものは、憎しみでも、怒りでも、恐怖でもありませんでした。
「私たちはいつでも大いなる流れと共に在るのだから」
ただ、全ての過ちを許すような、穏やかな微笑みだったのです。
 その瞬間、若者が長い間吐き出せずにいた感情が、一気に溢れました。
「僕は……僕はただ大切なものを守りたかった。騎士になれば、力を得ればそれが叶うと思っていたんだ。でもそれは間違いだった! 結局全てが失われ、憎しみばかりが残って仕舞った」
彼はいつになく能弁でした。師にさえも云えずにいた言葉が、自分でも驚く程にするすると出てくるのです。
「沢山の人を殺したよ。家族や友人や故郷を奪った奴らを……でも、何が違ったって云うんだ? 彼らも、僕らも同じだったのさ! 大切なものを守りたかっただけだ——」
 敵に向けられていた憎しみと怒りは、行き場を無くし、彼自身に向かっていました。
「誰もが平和を望んでいる筈なのに、争いは絶えない。こうしている今も、何処かで多くの人が死に、大切なものが奪われている」
 若者は右の手を見詰めました。
「僕はこんなことの為に剣を取った訳じゃない……だから剣を捨てた。捨てようとした! それなのに——未だ心を囚われている」
しかし、少女はきっぱりと云いました。
「力を捨てても争いは続くわ。憎しみや怒りの心が無くならない限り」
冷淡にも聞こえる言葉に、若者は叫ぶように訴えました。
「ではどうすれば? 心を棄てろとでも云うのか?!」
 今にも燃え尽きようとしている夕日が、二人の姿をはっきりと浮かび上がらせています。そして忍び寄る夜気が、体温の他にも何かを奪って行くような気がしました。
「済まない……」
どんなに長い夜でも、何時かは明けるものです。しかしこの世の闇は何時になっても明けないように思えて、若者は言葉を失い、項垂れました。
 すると、少女が口を開きました。
「私だって、戦争が憎いわ。この街も酷くやられたし、家族も、この目の光も奪った」
彼女の口振りは比較的穏やかでしたが、先刻までの若者に負けず劣らずの激しさを秘めていました。
「けれど、命は残った。貴方の仲間たちが守ってくれたのよ」
その言葉に、若者は顔を上げました。
「この世には戦いたくても、戦えない人も居る。守りたくても、守れない人も……彼らはそんな人たちの代わりに、剣や盾になってくれた。私の目は見えなくなったけれど、耳は聞こえる。歌も歌える」
 少女は一旦黙って、ぽつりと云いました。
「全ての力が悪ではないわ。貴方のその手の中のものも。そうでしょう?」
若者は反射的に拳を握り締めました。少女は小さな手を伸ばしてその拳を探り当て、優しく包みます。
「強い光は濃い影を生む——でも逆を云えば、濃い影を抱く人はそれだけ強い光を持てると云うことじゃないかしら」
見えない筈の彼女の目が、しっかりと若者を捉えたように思えました。
「貴方は影を真っ直ぐに見詰めることができる。影がどんなものかも知っている」
若者は彼女の黒曜石の光を見詰めました。
「だから考えて。私たちはどうするべきなのか。直に答えが出る訳も無いけれど、いつか答えが出たら、私に教えて頂戴」
少女はそこで初めて、幽かに微笑みました。
「歌にするわ。そして世界中で歌うの」
「歌に?」
少女は力強く頷きました。
「私の声、貴方には届いたでしょう? 歌い続ければ、きっと何処かで誰かが聞いてくれる。そしてその人が歌うのをまた誰かが聞いて、歌ってくれる——そう信じているの」
 彼女の目は、もうあの時のような冷たい光を放ってはいませんでした。出口の見えない穴のようではありましたが、若者にはその闇の中に幽かに瞬く星が見えたような気がしたのです。

 遥けき彼方に 唯一つ星の在り
 それは真なるもの 満ち満てる世界

 少女は再び歌い始めました。

 光が生み出し 影が呑み込みぬ
 生きとし生ける者らの道標

 その声は益々強く、きらきらと輝きを帯びて、滔々と流れ始めました。
 若者は目を閉じて、その流れに心を委ねます。 

 (我が父なる天の君よ)

 道を失い彷徨う者らよ
 汝らは光の中に在りて
 内なる光に気付かない

 (貴方が輝くほどに、この世の影は濃く、深くなる)

 闇に在りては闇を見て
 小さき光を見逃したり

 (だから私は確と目を開けていましょう。幽かな光を見逃さぬように)

 偽りばかりに耳を貸し
 隠れた真実を聞き逃す

 (そして耳を澄ましていましょう。声無き叫びを聞き逃さぬように)

 若者が目を開けると、宵の空に一番星が輝き始めていました。光の中に在っては見えず、闇の中でこそ輝くもの——絶望の中の希望もまた、幽かな星の瞬きなのです。
「君に大いなる流れの導きがありますように」
 彼は少女に背を向けて歩き出しました。右手に一振りの剣を握り締めて。けれども、その剣はもう何人も傷付けることはありません。決して抜くことなく、憎しみを断ち切り、大いなる流れを繋ぐ彼の武器なのです。

 仮令幽かな輝きなれども
 集い来れば道と成らん

 天空を流れる大河の如く
 あらゆる者らを導かん

 遥けき彼方のまた向こう
 涯て無く広がる星の海へ

 若者の胸の中、少女の声は愈煌めきながら速さを増していきました。それは光よりも速く、空よりも高く駆け上りました。そして急流の如くうねり、逆巻き、あらゆるものを飲み込んで——
 やがて、涯て無く広がる星の海になったのです。


Non est ad astra mollis e terris via.
大地から星までの道は平穏ではない。