tella Maris 8
ステラ・マリス 8

 「解き放て」

 声は云いました。

 「星の海は溢れたり」

 耳の奥で谺する、幽かな囁き。

 「すべてを押し流せ」

 それは、乾ききった枯れ野に放たれた火の如く燃え広がり——

 「汝が心の侭に」

 極限まで膨れ上がった憎しみが爆発し、凍り付いた少年の心は、その爆圧に耐え兼ねて、音を立てて砕け散ったのです。
 彼は剣を握り締め、岩場の鹿のように跳ねました。少年の体格に合った細身の剣は、驚くほど良く撓って敵の刃をかいくぐり、矢のように男の喉元に迫ったのです。
 母親の喉を切り裂いた男は、自らもまた同じ傷を受けて果てました。
「取り押さえろ!」
乱入者たちは輪になって少年を囲みます。
「殺すんじゃないぞ!」
指揮官らしき一人が叫びました。
「生きたまま捕らえろ!」
その声に反応した少年は、獲物の姿を捉えた鷹のように、真っ直ぐに向かって行きます。
 まだ躯のできていない少年の、何処にそんな力が有るのか——彼は疾風のように駆け、風に舞う木の葉のように攻撃をかわし、猛り狂った雄牛のように、行手を阻む者を一人また一人と、一突きで倒していきました。否、その狙いの正確さは興奮しきった牛と云うよりは、冷静沈着に機会を伺う闘牛士であったかも知れません。
 そうして、少年と指揮官の間に立ちはだかる者は居なくなりました。
 彼は剣を握り直し、閃光の如き一撃を加えるべく、床を蹴りました。

 キィン

 刃と刃がかち合う響き、細い腕に重く響く衝撃、そして、己の刃を受け止めた者が、倒すべき標的ではないことへの驚き——全てが綯い交ぜになって、少年の動きを止めました。
「心を鎮めろ」
低く深い声が響きました。
「貴様、隻眼の——?」
一方、少年が倒すべき男は幽かな呻きを漏らしながら、ずるずると頽れました。その胸には、刃幅の広い短剣が突き刺さっていたのです。
「怒りに任せて剣を振るうな」
少年の目は、突如現れた男の右目に吸い寄せられました。正確には目ではなく、眼帯に描かれた目のような紋様に。
「剣に心を喰われるぞ」
少年は怯みました。その不気味な紋様に、心の底まで見透かされたような気持ちがしたのです。
 男はその隙を見逃さず、少年の鳩尾に強烈な一撃を加えました。

 長過ぎた暗闇から漸く這い出た若者は、鳩尾の辺りに泡を立て乍ら湧き出した感情を、全て吐き出して仕舞いたいと思いました。けれども、震える歯の隙間から、声にならない叫びが漏れるだけでした。
「君はその影から、一生逃げ続ける気か?」
騎士は云いました。責めるような口調ではなく、まるで幼子に云い聞かせるような優しさを含んでいました。
「私はもう誰も殺したくないのです」
嗚咽を漏らしていた若者は、喉から絞り出すように云いました。
「誰も殺させたくないのです……!」
 すると、騎士は己の剣の鞘に手を掛けました。
「曾て我々の剣は、人を殺める為のものではなかった」
決して抜かない剣、それが我々の武器だった、と彼は云いました。
「憎しみの連鎖を断ち切るとも、大いなる流れを断ち切る勿れ——剣は、如何なる時も手放すことの無い『戒め』だったのだ」
 騎士は剣の束を握ると、一息に抜き放ちました。
「だが、伝家の宝刀も一度抜いてしまえば、只の剣——」
彼は剣を胸の高さまで掲げ、その白い刃越しに、項垂れた若者を見ました。
「いいか、大切なのはこれを使う者の心だ。相手を憎み、怒りに任せて振るうならば、いつか剣が君を喰い尽くすだろう」
若者は己が右の手を見詰めました。軋む指を僅かに曲げると、其処には見えない剣の柄が有るような気がしました。
 騎士は剣を一振りし、鞘に納めました。
「君の剣は簡単には捨てられぬ」
鷹の目が、再び鋭く光ります。
「何故なら、君の内に有るからだ」
「内に……」
 騎士の言葉は、若者に曾ての修行の記憶を思い出させました。

「均衡の護り手はまず、己の心の均衡を保たねばならぬ」
師は威厳ある声で、騎士見習いに向かって戒めの言葉を発しました。
「心の波を静めるのだ。決して乱してはならぬ」
「それは感情を殺すと云うことなのでしょうか」
騎士見習いは些か腑に落ちない様子で尋ねました。
「殺すのではない。囚われを棄て己を支配するのだ」
 師は青白く光る刀身に、己の貌を映しました。
「心を鏡のように磨け。其処に何が映るか見定めよ」
 すると、弟子は囁くような声で云いました。
「……私はそれを知るのが恐ろしいのです」
 師は見える方の目を伏せて思案しました。
 そして剣を下ろすと、幽かな溜息と共に云いました。
「君は君の敵のことを良く知る必要がある」
「私の敵? 帝国のことですか?」
 いいや、と師は頭を振って、弟子に背を向けました。
「己の敵はいつも己の内にあるものだ」
師は剣を収めると、そのまま行って仕舞いました。
 弟子は遠ざかる後ろ姿を見詰め乍ら、いつにも増して低く響いた喉声を思い返していました。

「己の敵はいつも己の内にある——」
若者は漸く目を上げました。
「これも試練なのですね」
電気石色の瞳は悲しみと絶望に打ちひしがれていましたが、その光を失ってはいませんでした。
「そうかも知れぬ」
騎士は抑揚の無い声で呟きました。それは、答えは己で考えよ——と云う時の、彼の癖でした。