tella Maris 7
ステラ・マリス 7

 短い驟雨の後に漸く、雲の切れ間から幾筋もの光が差し始めました。次第に数を増す光芒は、天を支える柱のようでもありましたし、天へと続く梯子のようでもありました。
 若者はずぶ濡れたまま、そんな景色をぼんやりと眺めていました。
「我々の一人一人が、あの柱の一本一本だ」
背後からの声に振り返ると、其処には大柄な男の姿が在りました。
「先生」
男は天道院騎士の師位(マスタ)の証たる濃緑の長衣を纏い、腰に一振りの剣を帯びていました。そして何よりも目を惹くのは、右目を覆う眼帯でした。黒地に施された目のような紋様が、奇妙な威圧感を放っているのです。
「柱が全て折れ去る時、天は地に落ちる」
 騎士の左目は鷹のそれのような鋭い光を湛えていました。しかし、若者は敢えて挑むように、その目を真っ直ぐに見返しました。
「もう落ちたも同然なのでは?」
若者の口から出た言葉は、導師に聞かれたら厳しく非難されるようなものでした。勿論、彼自身それを承知していましたし、実際、目の前に居る男に殴られても仕方が無いと覚悟さえしていました。
 ところが、騎士は若者を殴るどころか、怒鳴りさえしませんでした。ただ、その目に深い悲しみを湛えて、溜め息のように云ったのです。
「そうかも知れぬ」
云ったきり、騎士は押し黙って、遠くの空を眺めました。雲が随分晴れて空は明るくなり、光の柱は消えて仕舞っていました。
 予期せぬ師の反応に、若者は驚くと同時に戸惑っていました。そして、酷く後悔してもいました。曾て己を救ってくれた人に、非情な言葉を浴びせ、深く傷付けたのです。
「先生——」
 若者が謝罪の言葉を口にせんと沈黙を破った時、騎士が振り返りました。
「再び剣を取る気は無いか?」
突然の話に、若者は戸惑いました。
「その資格がないことは、貴方が一番良く知っている筈です」
若者は胸の奥で渦巻く闇を鎮めようと、努めて静かに云いました。
「私は剣を捨てた身——」
しかし其処まで云って、不意に手に剣の感触を感じたような気がして、動揺しました。
「——いえ、捨てようと努力しているのです。今は一介の導師見習いに過ぎません。見習いですらまともに務まっているかどうか……そんな私に、再び剣を取れと仰るのですか?」
最後は半ば叫ぶように捲し立てた若者に、騎士は穏やか乍らも率直な一言を放ちました。
「君は剣を捨てて、それで自由になった気でいるのか?」
あの鷹の目が、真っ直ぐに若者を見据えます。
「君が剣を手にしたのは何故だ?」
若者は先程とは違って、騎士の目を避けました。しかし騎士は益々強く、若者を睨み付けるように見詰めます。
「家族や故郷を奪った者たちへの復讐の為か?」
痛い程の視線と畳み掛けるような問いに、若者の影は四方八方に触手を伸ばし始めました。そして、彼の必死の抑制も虚しく、忌まわしい過去の記憶を引き出したのです。

「父上!」
少年が駆けつけた時、プラキドゥスの執政官であった彼の父親は、妻を庇って凶刃に倒れた後でした。
「貴様……!」
少年は咄嗟に腰の剣を抜いて、その切っ先を乱入者たちに向けました。
「アル! お逃げなさい!」
乱入者に取り押さえられた母親の叫びが、鼓膜を突き抜けるような勢いで高く響きます。
「でも……」
「早く——」
必死で訴える母親の首に、冷たい刃が押し当てられました。
「小僧、剣を捨てろ」
「母上!」
「捨てろ。さもなくば母親の命は無いぞ」
少年の心は揺れました。敵の喉の高さまであった切っ先が、僅かに下がります。
 それを見た母親が、首元の刃に構うことなく身を乗り出しました。
「お逃げなさい! 彼らの目的は貴方——」
しかし、母親の悲痛なる訴えは、其処で途切れました。
「母上……母上!」
「ええい、余計なことを!」
乱入者は人質を放り出しました。
「母上……」
少年は頽れた母親の元へ駆け寄ります。
「恐れないでアルサール」
今にも消え入りそうな声で、母親は云いました。
「私たちはいつでも大いなる流れと共に在るのだから」
そう云って最期に微笑んだ母親の顔は、その場に似つかわしくないほど穏やかでした。
「そんな」
 少年の躯は急速に冷えてゆきました。心臓が鼓動を止めて、血の流れが瞬く間に鈍って、手足の先から凍り始めたような気がしました。
「安心しろ」
乱入者は血に濡れた刃を少年に向けました。
「お前の命を奪う積りは無い。大人しく協力するならば——」
 しかし、その言葉は少年の耳には届いていませんでした。
 彼の頭には、別の声が響いていたのです。