tella Maris 6
ステラ・マリス 6

 若者は寝台から這い出て、ぐらぐらと傾く床の上に何とか踏み留まりました。そして弱った足を引き摺るように部屋を出て、ふらふらと歩き始めました。
 朝のひんやりとした空気が残る天道院の回廊は、ぐるぐると渦巻いて、彼を迷わせようとしました。また氷のように冷たい石床は、彼を引き止めようと裸足の足を刺しました。けれども彼は臆することなく、只管に進みました。まるで、彼にしか聞こえない呼び声に導かれるように。
 脇見もせずに歩き続けていた若者は、大きな両開きの扉の前で足を止めました。片方の扉は猫が一匹通れるほど開いていて、来る者を誘い入れんとしているようです。
 若者は磨き上げられた取っ手を引くと、細身の躯をするりと滑り込ませました。
 朝の祈りを終えた天道院の星堂は、すっかり静まり返っていました。薔薇が咲き競うように花開く初夏の眩い陽光が、色彩彩の硝子窓を通して、星堂内に降り注いでいます。
 若者は飴色に光る長椅子の列を抜け、真っ直ぐに奥の祭壇を目指しました。
 (我が父なる天の君よ)
 瞬きを一つすると、彼は時を越えました。
 (我に影に立ち向かう力を与え給え)
 燦然たる光を一身に浴び乍ら、彼は祭壇の前で膝を折りました。

「カリナのディルガンの子アルサールよ!」
天道院騎士団の総長が、跪いた騎士見習いに向かって大声で問いました。
「汝、ここに騎士の誓約を立て、天道院騎士となることを望むか?」
一方の騎士見習いも、負けず劣らずの大声で答えました。
「はい、総長。すべては星の導くままに」
すると総長は続けて問いました。
「汝、あらゆる欲を棄て、大いなる均衡のために、また大いなる光王のために、剣となり盾となることを望むか? また、大いなる光王によりて任ぜられた騎士団総長の命に従い、臆することなく邪悪との戦いに赴くことを望むか?」
「はい、総長。すべては星の導くままに」
 そこで総長は一旦問いかけを止め、星堂内を見渡しました。
「さて各々方! これなる若者は栄光ある騎士団の一員として、 我々の仲間に加わることを願っておる。誰ぞこの若者が騎士の栄光に相応しくないと知っている者があるか? あれば速やかに申し出よ!」
しかし、誰一人として異を唱えるものはありません。
 総長はもう一度問いかけて誰も応えないのを確かめると、大導師に剣の柄を差し出しました。
 年老いた大導師は恭しく剣を取ると、若き騎士見習いの肩を軽く打ちました。
「汝が上に大いなる光あれ」
晴れて騎士となった若者は恭しく剣を受け取ると、大導師の手を取り、大きな赤い石のはまった指輪に口づけをしました。そして慎ましく胸に手を置いて、真っ直ぐに前を見据え乍ら、小さく祈りました。
「我が父なる天の君よ、我に影に立ち向かう力を与え給え」

 若者は、曾て大導師の手を取り、己が胸に誓いを刻んだ右の手を眺めました。そしてそれを強く握りしめると同時に、堅く目を閉じました。あの凄惨なる大戦から生還して以来、一度も剣を手に取ったことはありません。にもかかわらず、堅く冷たい鋼鉄の感触を今も有り有りと思い出せることが、彼を責め苛むのです。
「汝、あらゆる欲を棄て、大いなる均衡のために、また大いなる光王のために、剣となり盾となることを望むか?」
星堂内に響き渡った、総長の言葉——
「大いなる光王によりて任ぜられた騎士団総長の命に従い、臆することなく邪悪との戦いに赴くことを望むか?」
「はい、総長。すべては星の導くままに」
 一欠片の迷いもなくそう誓ったことが、酷く遠い昔のことのように思えました。肌寒さを覚えて目を開けると、先程まで自分を包んでいた陽光が陰り、星堂は灰色に沈んでいます。
「邪悪を倒す為の戦いならば許されるのですか?」
陰った陽が再び輝くことを望み乍ら、彼は天を仰ぎました。
「均衡を守る為に命を奪うことは許されるのですか?」
幾度となく彼を苦しめてきた悪夢の光景が蘇ります。
「あのような犠牲を払ってまで守るべきものは何だったのですか? 平和ですか?」
若者の囁くような声は、静かな星堂内に反響し、幽かな揺らぎを醸していました。
「人は、そうして得た平和を容易く手放し、また争いを求めるのに……」
 彼は縋るような気持ちで天を見つめました。
「我々はいつになれば真の平和を得られるのでしょうか?」
 すっかり暗くなった堂内は、不吉な程に冷えきっていました。折り曲げられた若者の下肢も、寒さの為に錆び付いて、石床との境目がなくなってきたようでした。
(光よ降れ)
彼は願いました。
(影に手足をもがれ、闇に引きずり込まれそうな私の上に)
彼は信じました。あの硝子窓が再び色付いたなら、自分はまた立ち上がって、何処までも歩いて行けるのだ——と。
 しかし、彼の願いは叶いませんでした。
「何故です? 何故貴方は黙っておいでなのですか!」
 若者は痺れた両足を無理矢理床から引きはがし、すっくと立ち上がりました。そして空を求めて、砲弾の如き勢いで外へ駆け出したのです。
 扉を開け放った彼の目に、雨を含んだ雲に覆い隠されそうな空が飛び込んできました。それはまさに、不安に駆られた若者の心そのものでした。
「どうかお答えください」
若者は空を仰ぎました。
「私の曇った心を、貴方の光で照らしてください!」
 云い乍ら彼は、今にも暗雲が切れ、あの温かな光に包まれる光景を夢想しました。しかし、光は降りません。空は晴れるどころか益々曇り、遂に遠くで雷鳴が轟き始めたのです。
「それが貴方の答えなのですか?」
彼はその目に絶望と怒りを浮かべ、黒々と渦を巻く空に向かって、両腕を高く挙げました。
「この世は影に満ちていると云うのに、貴方は空の彼方にお隠れになったままです」
 ぶつぶつと呟くような雷鳴が、彼の怒りに火を付けました。
「高みの見物という訳か!」
彼は天をきっと睨みつけて、滾る怒りを吐き散らしました。
「ならばこの世の終わりまで、そこで黙って見ているが良い! 曾て貴様が救った世界が、醜く腐ってゆく様を……」
端正な顔が、自虐に満ちた嘲笑に歪みます。
「……それともこの不信心な私を、自慢の弓矢で射殺すか?!」
稲妻が暗い空を走り、どおん、と何処かへ落ちたようでした。
「何処を狙っている? 私は此処だ! さあ、この罪深い咎人の上に、貴様の裁きを下すが良い!」
 再びの雷光が白く弾けた瞬間、叫んだ彼の青白い頬に、一粒の涙が零れました。否、それは雨の粒だったのかも知れません。
 ぱらぱらと降り始めた雫は、瞬く間に叩き付けるような豪雨に変わりました。大粒の雨は若者の髪に、肩に降り注ぎ、腕を、躯を、足を、そしてそれが踏みしめる大地を濡らしました。
「貴方はあの時もそうやって、世界を水に沈めたのですか」
 彼は雨が止む迄、その場に立ち尽くしました。雨に打たれた躯が融け出して、大地にしみ込み、河となり、やがて渦を巻きながら故郷の海へと流れ込む光景を思い描き乍ら。