tella Maris 5
ステラ・マリス 5

 彼は意味を為さない叫び声を上げ乍ら、ふらふらと後退しました。けれども、少しも行かないうちに両足が縺れ、派手に転びました。それでも尚、目の前のおぞましいものから少しでも遠ざかりたい一心で、ずるずると藻掻きます。
「アル」
目の前のそれは、凝と彼を見ていました。
「僕をプラキドゥスに沈めておくれ」
「煩い!」
若者は半狂乱になって叫びました。
「お前は誰だ? 誰なんだ?!」
返事は有りません。
「そうか、貴様はそうやって俺を嵌めようと云うのだな」
 漸く立ち上がった彼は、何を思ったか、必死で逃げていたものに向かって行きました。
「そうはいくか……」
剣はまだ手の中に有りました。否、彼の手は既に剣そのものでした。
「アル」
「黙れ!」
 衝動に任せて剣を上げ、まさに振り下ろさんとした時でした。
「アル!」
突然彼の肩を掴んで、止める者が在りました。
「放せ!」
彼は肘を張ってその手を振りほどこうとしました。しかし、
「アルサール!」
 強い力で揺さぶられ、彼は我に返りました。
「導師?」
深い皺に埋もれそうな青い双眸が、見下ろしていました。若者は自分が寝台の上に臥していることに気付き、狼狽えます。
「此処は、」
「帰りが遅いから迎えを遣ったのだ……落ち着きなさい。此処は安全だ」
噛んで含めるような口調に、彼は少し安堵を覚えました。
「私は……」
 僅かな思案の後、またいつもの悪夢に囚われていたことに気付いて、彼は自嘲の笑みを漏らしました。
「私は誰なのでしょう」
彼は寝台に身を預け、目を閉じました。肉の削げ落ちた頬を、涙が濡らします。
「そして彼は……あの声は……」
「また例の夢か」
導師の言葉に、彼は頷きました。導師は僅かに同情の色を浮かべ、彼の肩に手を置きました。
「忘れることはできまいが、許すことはできるはずだ」
「許す? 彼らを?」
そんなことができる訳がない——若者は血の気の引いた拳を固く握りしめました。
「奴らは街を……海を、全てを奪ったのに!」
「いいや、彼らの為したことは到底許されぬ」
「では誰を許せと仰るのです?」
今にも噛み付かんばかりの若者に、導師は恍けたような表情で問いました。
「答えを知っていて問うのかね?」
 若者は一時押し黙りました。導師の視線を避けて窓の外を見やると、中庭が見えました。石壁に囲まれた庭に日の光が差し込んで、そこだけ切り取られたように浮かんでいます。
「私は、許しを乞う為に此処に来たのではありません」
眩しそうに目を細める若者の横顔は、まるで研ぎ澄まされた刃のようでした。しかしそれを見た導師は、微笑みを浮かべていました。
「では何故来たのだ?」
「私、私は……」
口籠った若者の手に、導師は自分の手を重ねました。若者の手は氷のように冷たく、老人の掌を刺しました。
「お前は、お前が恐れているものからは逃れられん」
導師は手に力を込めました。
「逃げ続ける限り、何処までも追いかけてくるだろう」
導師の低い嗄れ声は、不思議な響きを持って沁み渡りました。静謐な室内に、傷付いた若鹿の胸に。
「私はね、お前の居るべき場所は此処ではないような気がするのだ」
どうかね——と、導師は真っ直ぐに彼を見据えました。その青を見つめて、若者は漸く故郷の風景を思い出すことができました。
 世界中の青が融けた遠浅の海。
 南部特有の強い日差しを浴びて輝く白砂。
 沖から眺めた白壁の街並みは、まるで空に浮かぶ城のようで——
 不図、彼は潮の香りを嗅いだような気がしました。全て失われてしまっても、心はまだ、あの青い風を覚えていたのです。
「急く必要はない。良く考えるのだ」
導師はそう云って少し微笑んでみせると、幽かに衣擦れの音を立て乍ら、静かに部屋を後にしました。
(私は、私が恐れているものからは逃れられない)
部屋に一人残された若者は、導師の言葉を反芻しました。
(逃げ続ける限り、何処までも追いかけてくる……)
 中庭に降り注いでいた光が弱まって、部屋が仄かに薄暗くなりました。