ミスタ・ポストマン

   ポストマンズ・ノック


 印南野(イナミノ)副局長の机の前で、僕は身体を直角に折り曲げた。
「すみません! 遅刻しました!」
そして其の儘三秒静止し、バネの様に元に戻ると、直立不動の姿勢で相手の反応を待った。
 座って机上の書類に目を通していた副局長が顔を上げる。ひっつめの纏め髪が、広い額と、意志の強そうな眉を際立たせている。
「見れば解ります」
紅い口から発せられる、凛と響くアルト。
「配転初日から遅刻なんて、意外に度胸有るのね」
雷の一つでも落ちると覚悟していた僕は、些か拍子抜けした。
「そ、然う云う訳じゃ……」
 気が抜けると、周りの物が良く見えてくる。副局長の部屋は、とても狭かった——局舎自体こぢんまりとしているので当然と言えば当然なのだが——相手との距離が近過ぎる様な気がして落ち着かない。
「ウエタミ・ユウ君」副局長が立ち上がり、手元の書類を此方に差し出す。「此れが辞令よ。読み上げは省略ね」
僕は一寸息を吸ってから一歩踏み出し、其れを受け取った。
 其の瞬間。
 一秒前まで書類を保持していた副局長の手が伸び、僕の腕を掴んだ。予想外の出来事に、僕は為す術も無く彼女に引き寄せられる。
 ——何だ?
 頬に柔らかい物が触れた。
 其れが何だか判ったのは、頬に触れた自分の指先に付いた紅(あか)を見た時だった。
「ようこそ、タテハマ郵便局へ」
副局長は紅い唇をVの字にして微笑った。
 ——ポストマンズ・ノック?
 僕は激しく動揺した。
 ——だとしたらキスをするのは僕の方じゃないか?
 動揺が過ぎて、妙に冷静な事を考える。
 一方の副局長は、何事も無かった様に云った。
「辞令(それ)に書いてあるけど、貴方の配属は郵便課特別集配係よ。仕事に関する事は係長のアヅマさんに訊いて頂戴。以上」
相手に有無を云わせない、完璧な微笑み。
「了解しました。失礼します」
 僕も相手に倣って何事も無かった様に云った。