ミスタ・ポストマン

   プロローグ


 ——届けなければ。
 僕は年老いたモータ・バイクを放り出す。
 ——此の手紙を、彼女に。
 右手には、宛名の無い、真っ白な手紙。
 ——手紙を、早く。
 マンションの屋上で待つ、彼女に。
 エレベータが降りて来るのなんか待っていられない。
 錆びかけた螺旋階段を駆け上る。
 だが、昇っても、昇っても上がれない。
 階段がコルク抜きの様に地面にめり込んで行くのだ。
 昇っても、昇っても、届かない。
 彼女へ。
 彼女の待つ屋上へ。
 ——早く、早くしないと彼女が。

 墜ちる。
 黒い塊が。
 長い髪がうねる。
 ——如何して?
 うねって、伸びて、僕を捕らえる。
 ——如何して届けて呉れなかったの?
 僕は彼女と共に墜ちる。
 黒光りするアスファルトが、迫る。
 ——逃げなければ。
 地面に叩き付けられる前に。

 逃げなければ——

 悪夢から目覚める方法は知っている。先ずは、此れは夢だと気付く事。気付いて仕舞えばこっちのものだ。
 僕は地面に激突する前に目を開けた。
 全身に厭な汗をかいている。枕元の時計を見ると、午前八時を十分過ぎた所だった。
 ——アラームは鳴ったか?
 平生眠りが浅く、アラームが鳴る前に起きる質だった。だが今日に限っては家を出ているべき時刻だなんて。
 勢い良く起き上がって、ロフトから降りる。途中、危うく天井に頭をぶつけそうになる。何だか足元が覚束無い。昨晩なかなか寝付けずに飲んだ眠剤が残って仕舞ったのだろうか。其れとも単に、春の陽気の所為なのか。
 シャワーくらい浴びたかったが、時間が無い。慌てて着替えをし乍ら、未だ彼女の長い髪が身体中に纏わり付いている様な気がしてならなかった。