hadow in the mirror
鏡の中の影

 月明かりの差し込むお妃さまの自室

 ギャラクティカには、天導師(アッシャー)と呼ばれる人がいます。占術をはじめ、魔術や癒術をもおこなう祭司のような存在です。
 天導師になるには、とても過酷な修行を積む必要があります。世界各地の大導師を訪ねては教えを学び、技を鍛えなければならないのです。
 キグナスのお妃さま、ヴァルゴもかつては世界を巡っていました。しかし厳しい旅の途中で記憶を失い、当時隣国のアクイラと交戦中だったキグナスに流れ着いたのです。
 全てを失った彼女でしたが、長い戦と、同時に流行した疫病で苦しむ人々を目の当たりにして、少しでも力になりたいと奮闘しました。傷付いた者たちには治療を施し、希望を失った者には最後まで諦めぬことを説き、また死を待つばかりの者には、少しでも苦しまぬように祈ったのです。
 そんな彼女の姿に心打たれたのが、当時の国王サディル二世の末子、アルビレオ王子でした。長い乱世に生まれた彼にとってヴァルゴは、まるで戦争という荒野に咲いた、一輪の薔薇だったのです。
 アクイラ王の病死によって講和が結ばれた後、自らの死期を悟ったサディル二世は、王位を三人の息子のいずれかに譲ることに決めました。そのとき、ナヴィガトリアの宝冠に選ばれたのがアルビレオです。即位した彼は、人々に希望を与え続けたヴァルゴを心から愛し、お妃に迎えたのです。

 儀式での騒ぎの後、お妃さまは自室の大鏡の前に立っていました。蔦や花々の細やかな装飾の施された、古い古い銀の鏡です。窓から差し込む清かな月明かりに、その細部がすみずみまで浮かび上がっています。
「鏡よ、鏡よ、鏡よ……その銀の面に真実を映したまえ……」
厳粛な響きのあるささやきが、すうっと夜気に溶け込むと、鏡の表面が揺らめきはじめました。陽炎のように、もしくは細波のように——
「我に真実を見せたまえ……」
けれども、揺らぎはすぐにおさまってしまい、後には何も映りません。何度やってみても結果は同じでした。
  得意の占いの成果が得られずに、お妃さまは深い溜息をつきました。
「やはりだめね、邪魔をしているのは誰?」
そう云って、冷たい鏡に白い手を伸ばします。すると鏡の中のお妃さまも、同じように白い手を伸ばします。
「あの宝冠を破壊するほどの力の持ち主は?」
彼女は相変わらず沈黙したままの鏡に映る、自分の顔を見つめました。
「闇の呪いをまき散らした張本人は?」
燃えるような紅い髪はいよいよ紅く、大きな瞳は星持ち紅玉(スター・ルビー)のように強い輝きを帯びます。そうして、お妃さまは今一度囁きました。
「鏡よ、我が問いかけに答えたまえ……!」
 すると、不意に鏡の中から答える者がありました。
「それは私だよ、王妃」
お妃さまは鋭く息を飲んで、とっさに鏡から半歩飛びのきました。
「嘘よ」
その顔は蒼白く、唇は酷く震えています。
「嘘だわ」
お妃さまは鏡を見つめたまま、幽かに首を振りました。その動きに合わせて、紅い髪がゆらゆらと揺れます。すると、例の声は地鳴りのように笑いました。
「嘘なものか! おまえが真実を見せろと願ったのではないか」
「まさか!」お妃さまは恐れに折れかけた心を持ち直そうとしました。「そんなことを云って、わたくしを惑わすつもりか?」
しかし、声は容赦なく心の隙間に入り込み、激しく揺さぶるのです。
「いいや、おまえは真実を思い出さねばならぬのだ。何故記憶を失ったのか、何故この国にやってきたのか。己が何者で、何をなすべきなのかを……!」
「わたくしが何者か——?」
 お妃さまは目を見開いたまま、考えました。月光に照らされて仄明るかった室内は、いつの間にかすっぽりと暗い霞に包まれていて、冷え切った空気が、ちくちくと肌を刺します。
「わたくしは、」
何かを思い出そうとすればするほど、頭の中に霧が立ちこめて、全てを覆い隠そうとします。
(思い出したくない、思い出してはいけない!)
頭がズキズキと、まるで何かを警告するように痛みます。けれども一方で、霧の先に何があるのか、知りたい気持ちもありました。
(わたくしはどこから来て、どこへ行こうとしていたのか?)
 そう思った途端、鏡の中に新たな人影が現れました。その見馴れた後ろ姿に、お妃さまは思わず呼びかけます。
「アルビレオ?」
呼びかけに振り返ったのは、紛れもなく王さまでした。しかし彼はどういうわけか剣を抜き放ち、お妃さまの方へ構えました。
「我が民に呪いをまき散らしたのはおまえか!」
すると、王さまの足元に伸びていた影がむくむくと起き上がり、長い両手を伸ばして、彼の澄みきった青い目を覆い隠してしまったのです。
「やめて!」
お妃さまの悲鳴と王さまの呻き声が重なりました。鏡の中で、両手で目を覆った王さまの姿が、みるみるうちに変わっていきます。
「アルビレオ!」
お妃さまは鏡に張り付いて叫びました。薄い鏡を隔てた向こうには、すっかり変わり果てた王さまが立ち尽くしていました。鴉の羽のように黒かった髪は雪のように白くなっていましたし、海よりも深い青を湛えていた瞳は暗く濁って、まるで底なしの穴でした。
「そんな、」
お妃さまの心のどこかで、何かが砕ける音がしました。
「どうして——」
云いかけた言葉は、もはや白い吐息となって闇に呑まれていきました。そう、お妃さまはくたりと膝を折ると、そのままばったりと倒れてしまったのです。
 ところが奇妙なことに、鏡の中のお妃さまは立ったままでした。いえ、よく見るとそれはお妃さまではなく、酷く冷たい目をした女です。
「それはねヴァルゴ、おまえがヴァルゴだからさ」
そう云って笑った女の後ろには、月明かりに照らされた室内が映っていました。しかし、そこは実際の部屋とは大きく違っていました。すべてが逆さまなのは当然ですが、まるで何百年も放置されたかのように、すっかり荒れ果てていたのです。