rince who cannot sleep
眠れぬ王子

 夜明け近くの白鳥城 王子さまの自室

 ギャラクティカの北方に、キグナスという王国がありました。豊かな水と緑に恵まれた、とても美しい国です。
 その国土を縦断する<銀の河>のほとりに、<白鳥城>と呼ばれるお城がありました。その名のとおり、陽の光に白く輝くお城です。
 城の主であるアルビレオは、誰よりも平和を愛する聡明な人でした。そのお妃さまのヴァルゴは、<キグナスの薔薇>と呼ばれるほど美しく、慈悲深い人でした。
 そんな二人の間には、アゼルという一人息子がいました。父親の賢さと、母親の優しさを受け継いだ王子さまです。

 薔薇園の花々が色付きはじめた初夏の、ある日の朝。城内はいつになく慌ただしい様子でした。というのも、その日は王子さまの十五歳の誕生日だったからです。
 キグナスで十五歳と云えば、成人を迎える歳です。また、いずれ王位を継承する身分の者にとっては、<宝冠の儀式>を受ける歳でもありました。
 キグナスには、初代の王デネブ一世の時代から伝わる特別な宝冠があります。北の最果て(ポラリス)に住まう<白の魔女>が銀の河の水から創りだしたもので、清き心の持ち主が戴けば燦然と光り輝き、その者を祝福します。しかしそうでない者が戴けばたちまち輝きを失い、その者が王位に就けば災いが起きると伝えられていました。宝冠の儀式はいわば、王位継承者に王たる資質があるか否かを、皆に示す重要な機会なのです。
 そういうわけで、王子さまは緊張と不安で夕べからほとんど眠れませんでした。現に今、彼は窓辺に立ち、澄んだ青い目をしっかりと開けて、白み始めた空を眺めているのです。
 「大導師さまが口上を述べられ、私の名をお呼びになる。そうしたらまっすぐ祭壇まで進み、膝を付いて目を閉じる。すると大導師さまが宝冠を……」
王子さまは儀式の段取りを何度も繰り返しました。
「ああ、全部覚えているのに、どうしてこうも落ち着かないのだろう!」
 王子さまは思い返すのをやめ、ただ黙って遠くを見つめました。
「陽が昇る……」
金色の光が山際から幾本もの手を伸ばすと、闇はたちまちのうちに融け去って、空が、大地が、世界が目を覚まします。

 「七つの雲海の向こうには、空に浮かぶお城があるのですよ」

 黄金に染まりゆく雲の波を眺めていると、不意に幼い頃によく聞いたおとぎ話が思い出されました。七つの雲海の果ての空の城、そこには<魂の守人>が永遠の時を生きているというのです。

 「彼は<虚無>から初めに生まれた者とされていて、百の名と千の姿を持ち、万の声を以て人々を導くと云われているのです」

 初めの者、雲上の貴人、暁の君、光の王——それらはすべて彼、ディエスを指す名前でした。

 「彼はいつも、空の彼方から私たちを見守ってくださっているの」

 その話を初めて聞いた時からずっと、王子さまはある疑問を抱き続けていました。
「虚無とは何だろう? 光がある前、世界はどんなだったろう?」
そしてその疑問はいつも、二つ目の疑問を呼びます。
「光がなければ真っ暗闇だ。なら、虚無とは闇のことだろうか?」
そしてその疑問は更に、三つ目の疑問を呼ぶのです。
「ディエスは本当にいるのだろうか?」
 王子さまは空を見るたびに考えました。
「ねぇソロン、虚無とは何? 闇とは違うの? ディエスは本当にいるの?」
宮廷大魔術師に訊いてみましたが、彼は微笑んでこう答えました。
「それがお分かりになった時は、ぜひ私に教えていただきたいものです」
キグナス一の賢人にも分からないことなのです。

「あの空の彼方へ飛んで行けたなら、きっと——」
その時突然、扉を叩く音が聞こえました。控えめに、一回、二回——王子さまは慌てて寝台に飛び乗ると、布団にもぐりこみました。
「殿下、もうお目覚めでいらっしゃいますか?」
入ってきたのは若い侍女でした。
「うん、ちょうど今起きたところだ」
王子さまは不安を気取られぬよう、とっさに嘘をつきました。ところが、侍女は苦笑いを浮かべました。
「本当はあまりお眠りになれなかったのではありませんか?」
すると、王子さまはばつの悪そうな顔で答えました。
「実はそうなんだ。儀式の段取りは覚えているのだけれど、失敗してしまうんじゃないかって……」
落ち着かないようすの王子さまに、侍女は優しく云いました。
「私にも覚えがありますわ。初めてお城に上がった日、あまりに緊張してしまって、自分の名前を忘れてしまいましたのよ」
殿下ならきっと大丈夫ですよ、と微笑んだ侍女につられて、王子さまも笑いました。
「ありがとう、頑張るよ」
彼女のお陰で、ほんの少し心が落ち着いたのでした。