夕暮れ

 暑い。
 真夏の午后には、存在していたくない。

 朝、湿った布団の不快さと共に一日が始まる。既に蝉が鳴き始めており、今日も暑くなることを予感させる。
 陽が高くなってからでは何もする気になれないと思い、午前中は机に向かう。だがそれも長くは続かなかった。如何しても解けない問題が出てきた途端、全てが如何でも良くなってしまったのだ。
 とりわけ他にやることも無いので、その後は黙黙と本を読んだ。読書中は何もかも忘れられるから好い。時間は元より、不安、苦悩、他人のこと、それから自分のことさえも——全てが無くなるのだ。其処に在るのは、本の中の世界だけ——
 しかしそれでも限界が有るらしい。
 暑さだけは中中忘れ去ることが出来ないのだ。単に集中力が足りない所為なのかも知れないが、本当に、夏には勝てない。
 次第に陽が高くなり、部屋の温度が上がってくる。
 只凝と座っているだけにも拘わらず、額に浮かんだ汗が顳を伝い、顎を伝って落ちる。
 蝉の声は愈煮え滾る湯のように沸き、太陽はそこに在る物全てを黒焦げにせん、とばかりに照り輝いている。
 この太陽が西への旅を終える頃、漸く家を這い出して、黄昏に潜む異形の輩に交じって書店などをぶらつく。そして夜は再び読書に没頭する。
 夏期休暇とは云え、このような生活を続けていれば不健康なのは当然なのだが、如何にもならない。
  血が水銀になってしまったようだ。
  薄い皮膚の内側を、
  どろどろと流れているのが解るような気がする。
 恐らく、延延と同じ調子で続く油蝉の声が、催眠状態を引き起こしているに違いない。
 ほら、先刻からずっと耳元で鳴き叫んでいるあの声が、遠く、遠く……遙か彼方から聞こえる——

  ジジッ

 蝉が飛び立ったのと同時に、僕は目を醒ました。全身ぐっしょりと汗をかいている。遙か彼方に行っていたのは蝉の声ではなく、自分自身だった事に気が付いて笑ってしまう。
 畳に肘を突いて身を起こすと、何気なく縁側へ目を遣った。本が一冊、放ったらかしになっている。その頁がパラパラと捲れるのを見るまで、風が吹いている事にさえ気が付かなかった。
 躰が一気に冷える。身を震わせた僕は、やおら立ち上がり外を見た。陽炎が干涸らびた通りの上にもかもかと集まり、景色を奇妙に歪ませている。
 見ているだけで暑くなってくる。僕は光から目を背け、本を取り上げて続きを読み始めた。
 「もし、翼があるなら空を翔べるのに」
 何とも可笑しな台詞が書かれてあった。まるで英語の例文だ。
 「If I had wings, I...」
仮定法の授業は嫌いだ。もし、もしかしたら、こうだったら好いのに……うんざりする。
 「If , If , If...」
 僕は本を閉じると、机の上に放った。その時ちらりと見た空は、笑う位に蒼かった。
  ——もし、翼があったら、あの空を自由に翔べるのに……
 随分前に心無い友人の言葉で打ち据えられた僕は、二度とそんな仮定はすまいと決めたのだ——

 「何を云ってるんだ。仮にお前に翼があったとしても、下を見た途端に目を回して落っこちるのが関の山だ」
友人、村上武彦の言う事はもっともだった。僕は高所恐怖症の気がある。なのに……否、だからと云うべきか、高い処への憧れは尽きないのだ。
 その時僕は彼に質問をしたのを憶えている。
 「じゃあ、君は翼があったら好いと思った事は無いのかい?」
ないよ、と彼は即答した。
「俺は人間であって鳥ではないから翼もないし、空も飛べない。まあ、中には飛べない鳥もいるけどな——兎に角、翼なんて無くったって生きてゆける」
彼はきっぱりと云うと、黒い目で真っ直ぐに僕を見た。
「お前は如何して空など飛びたいと思うんだ?」
 僕は返答に困った。何故と訊かれても、解らない。
 黙ったままでいると、 村上はこう云った。
「人間は自分が持っていないものに強く憧れるらしいぜ」
 ——自分が持っていないもの。
 「だけど、それは君だって同じだろう? なのに君は、」
すると彼は露骨に厭な表情をした。
「だから必要無いからだ。あの希臘人だって必要があったから翼を造ったんじゃないか」
「希臘人? ……ああ、イカルスのことか」
「そうだ、イカルスだ」
彼はそこでちら、と空を見た。
「俺は落っこちて死ぬのは厭だね」
 別に高い処が怖い訳じゃあないぜ、と云ったのが、彼にしては言い訳じみていたので思わず笑ってしまったのを憶えている。
 しかし——僕は昔から高い処が怖かったろうか?
 小さい頃に、近所の友人達と高い木に登っていたような記憶はある。他の子供と比べたら下手だったろうが、登れないのかと莫迦にされるのが厭だったのも手伝って、必死で登り詰めたのだ。
  ——あの時、恐怖を感じていたろうか?
 いや、そうではない。木の上から見る夕焼けが、何よりのお気に入りだったのだ。
  ——では何故、
 庭の木で、今度は熊蝉が鳴き出した。

  脳内を掻き乱す蝉の声、
  軋む橋、
  急ぐ鼓動、
  一陣の風が吹き過ぎる——

 がらがらと玄関の戸を開ける音が聞こえた。そして一言二言の挨拶が風に乗って耳に届いた。その聲には聞き覚えがある。
 案の定、すっと襖が開き、長い髪を後ろで高く結わえた女性が顔を覗かせた。
「坊ちゃん……ああ、起きてましたの。お客さんですよ」
彼女と入れ違いに現れたのは、眉尻と口の端を奇態に歪めた背の高い男だった。
 僕は彼の表情に、先刻見た陽炎を思った。よく見ると、必死で笑いを堪えているのだ。
「き、梗子さん、その……坊ちゃんて云うのは、」
梗子さんは、あら、いけませんか——と云った。その表情は決して僕を揶揄っているようには見えない。しかしその隣の男は、相変わらず口の辺りを震わせている。今にも吹き出さんばかりである。
 「では、何とお呼びしたら好いかしら、」
僕は閉口した。何でも好いから兎に角、坊ちゃんは止めて欲しい——そう云おうとして口をもぐもぐさせていると、予想外に彼女が吹き出した。
 「あら、御免なさい。笑うつもりはなかったんですよ。ただ坊ちゃん、本当に困ってしまっているんですもの」
僕は助けを求めるかの如く、隣の男に目を向けた。だが彼は無情にも顔を背けた。肩が幽かに上下している。
 諦めて梗子さんに向き直ると、彼女は口元を綻ばせ、
「じゃあ、柾さんで宜しいですかしら?」
と問うた。
「え、ええ」
僕は張り子の虎のようにかくかくと頷く。
「では柾さん、何か冷たい物を持って来ますわね。村上さんにお土産を頂きましたのよ」
 彼女が去った後、今まで笑いを堪えていた男が座り乍ら、くつくつと喉を震わせて笑った。
「笑いすぎだ」
僕が抗議すると、例の友人、村上武彦は一息吐いて、
「相変わらず不健康そうじゃないか」
と云った。会って一言目がこうである。
「亦くだらない事ばかり考えて、無駄な時間を過ごしているみたいだな。『時は金なり』って言葉を知っているのか」
まあ、おまえの場合は時間よりも健康の方が大事だな——と云って又笑う。全く、彼の毒舌ぶりは知り合った時から変わっていない。いや、近頃は更に磨きが掛かったようなのだ。何時も澄ました貌で人を小莫迦にして面白がっている。かと云って反論しようとしても、口達者の彼には到底及ばないから、こっちはちっとも面白くない。
 「君は態態この暑い中、僕を愚弄しにやって来たのか」
僕に出来るのは精精こうやって皮肉を言うことぐらいだ。だが彼は僕の精一杯の抵抗をさらりと聞き流した。何処までも失礼な奴だ——
 「失礼します、」
その聲に僕は少しびくりとした。襖が開いて、梗子さんが現れた。
「麦茶ですけれど、」
梗子さんは何時も微笑みを絶やさない。
「有り難う御座います」
村上は手の平を返したように愛想の善い貌をする。僕はその横顔を睨み付ける。
「ああ、そう云えば柾さん、」
梗子さんがこちらを向いたので、僕は慌てた。
「な、何ですか?」
「先程戸棚を整理していましたらね、珍しい物が出て来ましたの」
後で見てくださいね、屹度驚きますわよ——梗子さんは謎めいた笑みを残して行った。一体何を見付けたのだろう。
 「あの人は?」
「菱川梗子さん。新しいお手伝いさんだよ」
憮然とした態度でそう答えると、村上は再びにやついた。
「なあんだ、矢っ張り坊ちゃんなんじゃないか」
「別にそう云う訳じゃないよ。只、母さん一人じゃ何かと大変だから」
村上は辺りを見回して、確かにこの家は四人で住むには広すぎるな、と云った。
 小学校に上がって初めての夏に父が他界し、祖母は一昨年の冬に亡くなった。兄は東京へ行ってしまったので、この家には母と祖父と僕、そして登志さんと云う住み込みのお手伝いさんの四人が暮らしていた。
 その登志さんも、一人息子の啓一郎さんが大怪我をして入院したので、身の回りの世話をする為に暇を貰いに来たのだった。
  ——何だか僕の周囲は不幸が多いな。
洋杯の麦茶を一口飲んで溜め息を吐く。
「何だ、爺臭いなぁ」
すかさず村上が文句を言う。
「だから、君はそんな事を言う為に来たのかと訊いてるじゃないか」
ふふん、と彼は鼻で笑った。
「いや、おまえ宿題は如何したかと思ってさ」
全く捗っていないことを確信しているような言い種である。その証拠に僕の返事を待たず、
「矢っ張り全然か。どうせそんな事だろうと思ったよ」
と云った。暇だったし、少し手伝ってやろうと思ったんだ——と筆記帳を取り出す。何だかんだ云って彼はお節介をやくのが好きなんじゃないか、と思う。だが、
「勿論、写させてはやらないよ。それじゃあ意味が無い」
と彼は意地悪く笑った。結局冷やかしに来たらしい。
「別にそんな事は期待してないさ」
僕はお土産の最中を囓った。渇いた口の中にくっついて不快極まりない。元来僕は最中が好きではないのだ。終いには麦茶で流し込む。もう暫くは食べなくて好いだろう——
 僕等は暫く他愛のない話をしていたが、結局宿題をする羽目になった。抑も大した量ではないし、その気になれば直ぐに終えられるようなものなのだ。
「幾ら数学が不得手だからって、こんな問題三日もあれば済むだろう?」
君と一緒にしないでくれ——僕は残りの文章題に眼を落とす。
「君はもう全部終わったのか?」
村上は、あんなもの、一週間と掛からないさ、と云って麦茶を飲み干した。
「ああ云う物を書いている暇があるなら、颯爽と終わらせてしまえば後が楽だぜ」
「ああ云う物?」
「『四季海譚』だよ」
 『四季海譚』とは、文芸部と一般生徒からの投稿で構成される冊子で、毎学期末に発行される。僕は軽い気持ちで、前前から書き溜めしていたものを多少加筆修正して投稿した所、珍しい部類だ、と図らずも好評を得たのであった。
 「あれは一寸病的だったぜ。まあ、君が書いたのだから仕方無いか、」
ある意味ノンフィクションなんだろう、と云う問い掛けに、僕は曖昧な返事をした。すると彼は頼みもしないのに作品の批評を始めた。
「中中面白かったぜ。例えるなら、『雨月物語』が長雨で腐ったような感じだったな。でも、」
それじゃあ秋成に失礼かな、と村上は薄笑いを浮かべる。
「主人公——名は無かったが、あれはお前自身なんだろう? 矢っ張り長雨で腐りかけていた時に書いたのか?」
全くその通りだ。今年の梅雨は矢鱈に長かった。そして何時明けたのか判らないままこの猛暑——噂によると残暑も厳しいらしい。最悪だ。
「その文章題を解けないのも、脳味噌がこの暑さで腐っているからか?」
「君は何時も腐った腐ったと云うが、僕が腐っても『雨月物語』は腐らないだろう」
村上は眉根を寄せた。笑っているのか困っているのか判じ難い。若しくはその両方なのかも知れない。
「莫迦だなあ。比喩だと云っているじゃないか。実際に腐るか如何か何て今は問題じゃない」
それより、登場人物にMと云う奴がいたが——と、村上は心持ち身を乗り出した。
「あれのモデルは俺なのか?」
またもやその通りである。しかしそれを云うと、亦難癖を付けられそうなので、
「そんなつもりは無かったけど」
等とぼそぼそ呟くと、彼は意外にもふうん、と頷いただけだった。しかも彼の得意な気のない返事ではなく、何か納得がいったような、そんな感じで……
「おまえにしては克く書けていたと思うぜ。Mはどう考えても俺だろう? 腹が立つ位そっくりだよ」
 誉めているのか貶しているのか解らない。恐らくは彼なりに誉めてくれているのだろう。平生から人を莫迦にしてばかりいるから、そんな云い方しか出来ないのだ。否、そんな云い方しか出来ないから、莫迦にしてしまう他無いのかも知れない。元より少し偏屈な奴なのだ。だが結局、こうして友達付き合いが続いているのを考えると、僕も人の事を兎や角言えない。
 「しかし暑いな、こんな日に限って少しも風が吹かないなんて、」
何気なく発された友人の言葉に、どきりとした。
「風が吹いていない——」
 そんな莫迦な。先刻、涼しげな風に書籍の頁がぱらぱらと……否、確かに吹いている。
「聞こえないか」
「何が、」
そうだ、あれは確かに、
「風鈴の音さ」

 幽かな響き。
 濁った暑苦しい空気を、瞬時に浄化する澄んだ音色。
 風鈴が茜の光を反射する。
 ちりんちりり。
 夕焼けの色。
 ちりんちりり。
 夕焼け色の……

 「……嗚呼、でもあの風鈴は、違うんだな」
 母さんの風鈴は、まるで血の色みたいな真っ赤だった。
 「僕は怖かったんだ。あの恐怖に囚われて、いつか父さんのように、あの風鈴のように、砕けてしまうかも知れないと、」
 砕けてしまった方が楽かも知れない。そう思ったこともある。粉粉に砕け散って、僕は消えてしまうのだ……
 「でも、このまま何もしないで消えてしまうのは、厭だ。あんな、得体の知れない娘と、脆い風鈴如きに、こんな思いをしなけりゃならないなんて、」
 厭だ。
 「だから、もう引きずり込まれないように、眼を開けて現実を見ていられるように、強くなりたいんだ」
 強く、つよく……
 村上は溜息を吐いた。
 「それは現実なのか? 君は衝撃で自分の記憶を捻曲げてしまっているだけじゃないのか?」
 僕も最初はそう思った。しかし、
「実際にその娘に会ったんだよ。話もした。彼女は、あの時溺れていたのではなく、只遊んでいただけだと云った……それから——父さんは彼女を助けに飛び込んだんじゃないとも云った」
「では何故飛び込んだんだ?」
「それは、」
 僕は躊躇した。彼女に聞いただけで、実際に父さんが云っていた訳じゃない。だが、本当なのかも知れない。普段から何か黒く重たい物を抱えて生きているような人であった。ただそれを他人に見せないから、誰もそれに気が付かなかっただけなのだ……
 「好いよ、云いたくなければ、」
無理に云わせて又壊れたら大変だ——村上は精一杯辛辣そうな表情で云う。
「全く、風鈴売りが来ただけでそんなに混乱するとはな」
「風鈴売り?」
「ほら、あそこ——今角を曲がって行く」

 いつの間にか訪れた夕暮れ。
 茜に染まる空。

 目の前の友人は、西日を背に受け、黒い塊だった。
「強くなりたい……か。そう思う気があるなら、なれるさ」
 なれるだろうか。
「……いつだったか、おまえは、空を飛びたいと云った。その時俺が何と云ったか、覚えているか」
 頷いてみせる。
「俺は人間であって鳥ではないから翼もないし、空も飛べない……」
「そうだ、翼なんて無くったって生きてゆける、」
村上は苦笑いを浮かべていた。
「そんなに空を飛びたきゃ飛行士にでもなれば好い」
「僕が高所恐怖症だって、知ってるだろう?」
彼は、分かってないなぁ、という表情をする。
「だから、そう思っているから、越えられないんだよ」
怖くない、と思えば怖くない。強くなるぞ、と思えば強くなれるんだ——最後に多分な、と付け足して、得意の薄笑い。
 「要は、気の持ちようってことさ。……あぁ、それが出来ないから、いつまでもこの調子なのか」
云ってから気付いたらしい。だが、
「云われてみれば、何だか出来そうな気がしてきた」
へえ、おまえの口からそんな言葉が出るとはな、と村上は珍しく驚いた表情を見せる。
「……単純な奴で好かった」
 その間にも、散散僕を苦しめた太陽はどんどん沈んでゆき、空は絵の具を混ぜた調色板のようだ。蔓延っていた陽炎はいつの間にか姿を消し、風鈴売りは幽かな音色を残して去ってゆく。
 全てが色褪せてゆく中、しかし一際鮮やかなものがあった。

 りりん。

 月の消えた真っ暗な夜、白い少女に貰った風鈴。
 「こうやって毎日見ていたら、慣れてくるかと思って」
 あの恐怖に慣れるとは思えないが、少しは、和らぐような気がするのだ。
 「そうか、」
そろそろ帰るよ、と村上は立ち上がる。
「精精頑張ってくれ給え」
 襖の向こうで話し声がする。
 「長長と済みませんでした」
 「好いんですよ、坊ちゃん退屈そうでしたし、少し心配していたんです……」
  ——ああ、梗子さんに心配を掛けていたのか。
 何だか申し訳ない気持ちを憶えた一方で、先程の彼女の言葉を思い出した。珍しい物が出てきたとか、僕が驚くだろうとも言っていた。
  ——今なら何にでも驚きそうだ。
 僕は立ち上がって襖を引いた。

(了)