薄紅狂想

 それは学年末試験も終わり、間も無く短い春休みを迎えようかと云う頃の事だった。
 帰り掛け、僕は同級の西川(さいかわ)と河沿いの桜並木を歩いていた。時折冷たい風が吹いていたが、枝先の蕾はふっくらと確実に膨らんで来ていた。
 春、それは皆が妙に浮き浮きとし始める季節である。特に桜の時期ともなれば、昼は土手に座り込んで弁当を食べたり、夜は肴を持ち寄って酒を飲んだりと、銘々に浮かれ騒ぐ。そして終いには花に酔っているのか将又酒に酔っているのか、抑それが現実なのか夢なのかさえ判別の付かぬ様な、一種異様な空間を作り出すのだ。
 だが僕の心は浮つくどころか沈んでいた。そんな狂乱の時が早く過ぎ去る事を願っていた。理由は判らない。只、少なくとも春の訪れを待ち望んではいなかったのだ。
 そんな事を考えていると、西川が不意に口を開いた。
「なぁ高崎、『桜の樹の下には屍体が埋まっている』って話、知っているか?」
此処の処ずっと咳をしている彼の声は、酷く掠れていた。
「坂口安吾か?」
「梶井基次郎さ」
「そうか。聞いた事はあるけど、真面に読んだ事は無いな」
面白いのか、と訊くと、予期せぬ答えが返ってきた。
「俺、あの話は本当だと思うぜ」
硬い鍔の黒制帽が成す陰の中、奇態な輝きを帯びた西川の目は、何処か遠くを見ていた。
「でなければ、あんなに見事に咲くものか」
 彼が余りに真面目な顔をしているので、僕は思わず笑い飛ばして仕舞った。
「莫迦だな、ならば雑草だって見事なものじゃないか。抜いても抜いても生えるのだぜ」
云い乍ら、夏休みに家の近所の草取りをした事を思い出した。炎天下で汗と埃に塗れ乍ら散々苦労したにも拘らず、奴らは又青々と生い茂るのだ。
「その理屈で云えば、岐度、其処いらじゅうに死体が埋まっているに違い無い」
 然う云った僕はしかし、笑うのを止めた。西川が立ち止まり、背中を丸めて酷い咳をしていたからだ。
「大丈夫か?」
慌てて近寄った僕を、彼は手を挙げて制する。
「大丈夫だ」
彼は大きく息を吐いて、何事も無かったかの様に顔を上げた。
 その時、僕は何だか彼が自分の知っている彼では無い様な気がした。ひやりとする風に項を撫でられた所為だろうか、明るい日差しや、芽吹く草木の鮮やかな色に囲まれ乍らも、心の中は奇妙に冷たかった。
 僕はそんな違和感を振り払う様に問うた。
「それで、何故又そんな話を?」
すると、西川は口を開きかけて又こんこんと咳をした。彼が肺を患っている事は知っていた。一時は良くなったかに見えたが、近頃思わしく無い様だ。
 咳が治まると、彼は溜め息の様に云い放った。
「気になる女性(ひと)がいるんだ」
唐突な告白に、僕は一瞬返事が出来なかった。西川はそう云う類の話とは縁遠そうだ、と勝手に思い込んでいたし、仮令想い人が出来たとしても、それを自分から口にする様な男では無かったからだ。
「誰なんだい?」
やっと出た言葉がこれだった。
「それが、」
一方の西川は別段はにかむ風でも無く、何時もの生真面目な顔で、只、説明し難そうに言葉を濁した。
「良く分からない」
僕は最早何も云えなかった。良く分からない人を好きになるなど、益々らしくない。
 西川はそんな僕の心中を察したのか、自分から話し始めた。
「俺、何時もお前と別れた後、神社を通って帰るだろう?」
「ああ、大きな桜の木の在る」
そうだ、と彼は頷く。
「其処で会ったんだ」
「それで?」
話を促したが、西川は矢張り口籠った。唐突な話に戸惑う僕よりも、彼の方が酷く困惑しているので居心地が悪い。
「真逆、名前も知らない訳じゃ無いのだろう?」
何とも云い難い雰囲気を変えようと、僕は冗談混じりに尋ねた。
 すると、西川は彼女に告白でもする様な思い切った口振りで、一言こう云った。
「さくら」
春の風に消えて仕舞いそうな、短い言葉だった。
「あの女(ひと)はさくらだ」
そんな彼の貌は少なからず上気していた。幽かに開かれた儘の唇は、まるで紅でも注したかの様に赤味を帯び、黒い瞳は薄らと潤んで、相変わらず遠くを見詰めていた。
 さくら——それが彼女の名前なのか、彼女が桜の様な人なのか、西川の云わんとしていることは良く解らなかった。だが僕はそれ以上何も訊かなかったし、彼は濃く凛々しい眉を僅かに顰め、俯くばかりだった。
 そうして僕らは例の神社へ続く橋の手前で別れた。

 「『桜の樹の下には屍体が埋まっている』って話、知っているか?」
翌日の放課後、立ち寄った図書室で貸し出し当番をしていた佐々木に訊いてみた。
「サァ……俺、文学には疎くてね」
「おい、それでも図書委員か」
一寸揶揄ってやると、彼は口を尖らせた。
「別に好きでやってる訳じゃないさ」
籤運が悪いんだ、と肩を竦める。
「それで、それ借りるの、借りないの?」
自分の後ろに人が並んでいることに気付いて、僕は慌てて小脇に抱えていた本を突き出した。
「借ります」
 佐々木は慣れた手つきで裏表紙を開き、貼られた用紙に返却日を書くと、貸し出し札を引き抜き、僕の名前と返却日を書き入れた。
「あんまり人気が無いみたいだな。前回貸し出されたの、三年前だぜ」
俺達の入学前じゃないか、と云って彼は本を閉じると、表紙を上にしてくるりと半回転させた。
「貸し出し期間は春休み明け迄だ」
差し出された本は、僕の方に真っ直ぐ顔を向けていた。其処には「梶井基次郎全集」と書かれていた。
「確り守って呉れよ。でなければ督促状を出すぞ」
佐々木は釘を刺した。岐度督促状を書くのが面倒なのだろうと思ったが、黙っておいた。

 帰宅して、早速借りてきた本を開いてみた。表紙は色褪せ、天地や小口は変色して染みだらけだったものの、中は思いの外綺麗で、幽かに乾いた埃の臭いがした。長い事書架で眠っていた所為か、ぴたりとくっついた頁を慎重に捲る。

 櫻の樹の下には屍體が埋まつてゐる!  これは信じていいことなんだよ。何故つて、櫻の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことぢやないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だつた。しかしいま、やつとわかるときが來た。櫻の樹の下には屍體が埋まつてゐる。これは信じていいことだ。

梶井基次郎「櫻の樹の下には」より抜粋

 其処迄読んで、僕は本を閉じた。何をやっているのだろう。幾ら西川の奇妙な言動が気になったからと云って、態々図書室迄行って借りて来て仕舞うとは。
 「俺、あの話は本当だと思うぜ」
 あの時、遠くを見る様な目をした西川は云った。
 「でなければ、あんなに見事に咲くものか」
 彼には見えていたのだろうか? 薄紅色の香気を振り撒く満開の桜が——そう思いかけて、一人で笑って仕舞う。
「莫迦莫迦しい」
 僕は幻想を押し込める様に、本を鞄に突っ込んだ。

 その又翌日の放課後、西川の学級を覗いた僕は、窓際の彼の席にその姿が無い事に気付いた。
「おい、西川は?」
もう帰ったのかと思い乍ら近くに居た奴に尋ねると、意外な返事が返って来た。
「昨日から休んでるよ」
「休み?」
「うん。近頃ずっと調子が悪そうだったし」
そうだよな、と彼は一緒に居た奴に同意を求めた。
「ああ。咳き込んだり、惚っとしちゃってさ。熱も有ったのじゃないか」
すると、最初に話した奴が云った。
「そう云えば彼奴、恋の噂が有るよな」
「昼休みとか、独りで物思いに耽ってる感じでさ」
 二人はそう云って笑い合ったが、僕は素直に笑えなかった。

 帰ろうと階段を下りていると、不意に呼び止められた。
「高崎、おい高崎!」
振り返った先には担任の理科教諭、遠山がいた。何時ものよれよれの白衣を着て、両手に実験器具がごちゃごちゃと放り込まれた箱を抱えている。
「済まんがこれ、職員室の俺の机へ持って行って呉れないか」
遠山は返事も聞かずに、半ば押し付けるように箱を渡してきた。
「おおそうか、有難う」
と云って面白そうに笑う。散々だった学年末試験の結果を根に持っているらしい。
「分かりました」
今にも底の抜けそうな箱を抱え、僕は職員室へ向かった。

 「やァ、高崎君じゃありませんか」
のんびりした声の主は、西川の担任で国語科の大坪だ。
「まァた遠山先生に捕まったんですか?」
僕はくすくすと笑う大坪の横、遠山の机の側に箱を置くと、制帽を脱いだ。
「僕、岐度嫌われていますね」
「否、その逆でしょう」
 大坪は下がった黒縁眼鏡をくいと上げると、はたと話題を切り替えた。
「そうだ君、西川君はご近所でしたね?」と、一冊の本を差し出す。「これ、彼が読みたがっていたのですが、好ければ届けて呉れませんか?」
「ええ、構いませんよ」
僕は本を受け取った。白い表紙には「ランボオ詩集」と書かれてあった。
「西川、具合は如何なんです?」
尋ねると、大坪は少し考えるような表情をした。
「今朝ご家族から連絡が有りましてね。休学も有り得るかも知れません」
「矢張り酷いんですね」
大坪は少し俯き加減で頷いた。確かにあの様子では学業どころでは無いだろう。この間の言動も手伝って、余計に気掛かりだ。
 では失礼します、と踵を返しかけたその時、不意に或る事が脳裏を過った。
「先生、『桜の樹の下には屍体が埋まっている』と云う話、ご存知ですか?」
「ああ、梶井基次郎。私、丸善に行くと何時も思い出して仕舞いますよ、檸檬爆弾」
何時か私もやってみたいものです、と大坪はくすくすと笑った。
「君は梶井が好きなんですか?」
僕は唸った。
「好きと云うか……その、一寸気になる事が有って。図書室で借りてみたんです」
すると、大坪は眼鏡の奥の目を瞠った。
「それは好い! 近頃は本を読まない生徒が多く成って来ましてね。君の様な人が増えて呉れると嬉しいですよ」
 本の話になって急に子供のように輝き出した大坪の表情は、眩い春の日差しを思い起こさせた。その所為では無いが、僕は一番訊きたかった事を聞き逃して仕舞った。
 先生は、その話を信じますか——

 大坪の頼みを快諾したものの、西川の家を目指して河沿いの桜の下を歩く僕の足取りは遅かった。あの日の奇妙な告白以来、西川には会っていない。
 「『桜の樹の下には屍体が埋まっている』って話、知っているか?」
 彼の言葉が蘇る。
 「俺、あの話は本当だと思うぜ」
 遠くを見る様な目をして、
 「気になる女性(ひと)がいるんだ」
 至極真面目な顔でそう云ったのだ。
 「さくら」
 春風に消えそうな呟き。
 「あの女(ひと)はさくらだ」
 見上げると、今にも綻びそうな蕾が目に留まった。先に僅かに覗く花弁が焦れったい。開くなら早く開いて仕舞え! だがそう思う一方で、この儘開いて呉れるなとも願っている自分に気付く。嗚呼、この焦燥感は何だろう。無性に胸の中が騒ついて——
 堪らずに僕は駆け出した。埃っぽくて生温い南風の中、今将に目覚めんとする桜の下を、莫迦みたいに走ったのだ。
 何時も西川と別れる橋の前で、漸く立ち止まった。肩で息をする。砂でも舞っているのだろう、口の中がざらついた。
 薄らと汗ばんだ額を拭うと、僕は歩き始めた。この橋を渡って真っ直ぐ行けば神社が在る。神社を抜ければ、西川の家はすぐ其処だ——
 だが、僕は敢えて回り道をした。今は神社を通りたく無かった。例の桜を見たく無かった。

 「アラ、映介君じゃないの。久し振りねぇ」
迎えて呉れたのは西川のお祖母さんだった。西川は幼い頃に母親を病で亡くし、父親と父方の祖母と三人暮らしだった。
「大坪先生から頼まれたんです。西——悟君が読みたがっているそうで」
僕は玄関先で本を渡した。
「マア、態々有難う。先生にも宜敷く伝えて頂戴ね」
お祖母さんはにこやかに微笑んだ。皺の多い顔が更に皺だらけになる。少し見ないうちに随分年を取った様だった。
「あの、彼の様子は如何ですか?」
「ずっと咳が続いて居てね……熱も少し高くって。お医者さんに来て頂いて、今は眠っているわ」
心配掛けて御免なさいね、とお祖母さんは頭を下げた。
「いえ……矢張り肺が?」
「そう。ずっと平気だったのだけれど、近頃急にね。なのにあの子ったら無理をして……医者は嫌いだから呼んで呉れるなって云うのよ」
 困ったものよね、と苦笑したお祖母さんは、唐突に家の奥を示した。
「サァ、折角来たのだから上がって行って頂戴」
「いえ、そんなお構い無く」
「遠慮する事無いのよ。碌な物は無いけど、お茶ぐらい、ね」
「そうですか、ではお邪魔します」
用事を済ませたら直にお暇する積りだったが、お祖母さんが頻りに薦めるので断るにも断れず、僕はごそごそと靴を脱いだ。
 幼い頃に度々お邪魔した家は、思いの外狭く感じた。桐の箪笥も飴色の戸棚もお祖母さんも、何もかもが小さくなったように見えた。只、お祖父さんとお母さんの遺影だけは、今でも黒々と大きかった。
 「もうすぐ十三回忌」
お茶を啜ったお祖母さんが、不意に独り言の様に呟いた。
「悟も映介君も大きくなる訳ね」
わたしは縮んでくばっかりだけれど——と笑う。
「お母様が亡くなられたのは四月でしたね」
 今迄すっかり忘れて仕舞って居たが、口に出した途端、通夜や葬式の様子をはっきりと思い出した。
 そう、あれは満開の桜が散り始める頃の事だった。一年間のうちのほんの僅かな時、精一杯溜め込んだ力を一斉に解き放つ桜と、その薄紅の輝きを全て飲み込み、底深く沈む参列者の黒——そんな奇妙な取り合わせは、幼い僕の心に鉛の様に溜まったものだった。
 そして今も、鉛は消えてはいなかった事に気が付いた。消えるどころか、寧ろ桜の蕾の様に膨らみ続けていたのかも知れない。
 僕は黒い渦の中で薄紅色を振り撒く一本の桜木を夢想した。辺りは魔術にでも掛かった様に妖しく霞み、其処に人影が朦朧(ぼんやり)と浮かび上がる。女だ。淡い花の嵐の中、独り佇む女。その漆黒の髪がゆらゆらと棚引いて——
 まるでキネマトグラフの様に鮮明な景色が見えた気がして、僕は思わず口を開いた。
「あの、悟君は桜について何か話していませんでしたか?」
お祖母さんにまでそんな事を訊くなんて、愈如何かしている。
「此処に来る途中の神社の、大きな桜の事とか——」
 そう云った途端、僕は後悔した。先程までにこやかだったお祖母さんの表情が一遍に曇ったからだ。まるで十二年前の参列者たちの様に。
「悟がそんな話を?」
「え、ええ……その桜の所で人に会ったのだとか。僕も詳しくは聞いていないのですが」
僕は早く話題を変えようと焦った。だがそんな努力は無意味だった。お祖母さんの顔色は病人の様に蒼白で、見開かれた目には奇妙な光さえ宿っていたのだ。
 僕は全身が粟立つのを感じた。
 「俺、あの話は本当だと思うぜ」
 あの時の西川と同じ目だ。
 一体何処を見ている? 何を見ているのだ——
 すると、不意に囁き声が聞こえた。
「嗚呼……御免なさい、御免なさい」
お祖母さんが消え入りそうな声で謝罪の言葉を述べ始めたのだ。
「御免なさい、御免なさい……」
どす黒い蕾が胸の奥で膨らみ続ける。
「御免なさい……」
 居ても立ってもいられなくなった僕は、自ら暇を申し出た。一刻も早くこの場を離れたかった。出来る事なら忘れて仕舞いたかった。あの目も、十二年前の出来事も——
「桜子さん……」
そんな言葉が聞こえた気がしたが、僕はお構い無しに制帽を引っ掴んで玄関へ突進し、革靴に足を突っ込むと、逃げるように駆け出した。

 闇雲に走って走って、気が付くと、僕は例の神社の前にいた。
 何て事だ! 態と避けたのにも拘らず、自ら来て仕舞うとは。
 こんもりと茂る雑木林の闇。明るい日差しに照る黄色い砂。夢の様に霞む景色に、一瞬面食らう。生暖かい風が、汗ばんだ身体を冷やす。
 引き返せ、と誰かが云った。
 此方へおいで、と誰かが云った。
 履き慣れた革靴が砂の上を滑る。一歩踏み出すと、進むのは簡単だった。ざりざりと踏む度に砂塵が舞う。ざわざわと木々が騒ぐ。そうだ此方だよ、と声がして——
 それは現れた。
 滑らかだが強い陽光の中に、燦然と輝く薄紅。それは迸る生命の色だ。底深い地中の根から厳つい幹、迷路の様に広がる枝の先——その至福の色に、全てが染まる。大地も、空さえも。
 吸い込んだ息を吐き損なった僕は、次第に息苦しさを覚え始めた。この異様な空気を吸い込んだが最後、あの色が毒の様に全身を巡るだろう。そのうち身体が動かなくなって、僕は桜になるのだ。地中に深々と根を下ろし、空中に高々と枝を張り巡らせ、狂ったように咲き誇る桜に。
 苦しさに耐え兼ねた僕は息を吐き出し、そして思い切り吸い込んだ。そうして空を仰いだその時、薄紅のひとひらが舞うのを見た。
 はらりはらりと宙を舞い、落ちて来る。
 ふうわりふうわり。
 僕は両の腕を伸ばし、それを捕まえた。そっと手を開いてみると、真っ白から淡い紅へと完璧なグラデイションを成すそれは、風に吹かれて今にも掌から飛び立とうとする——
 其処へ、
 びちゃり。
 何かが一滴、落ちて来た。
 四方八方に飛び散った飛沫。そのてらてらと艶光りする紅に磔にされた、薄紅のひとひら。
 駄目だ、見てはいけない——
 しかし僕は顔を上げて仕舞った。
 臈長けた桜の大樹の上、薄紅の舞い踊る生暖かい南風に、高く吊るされた女の黒く長い髪が波打っていた。その青白く透き徹る鑞の様な足先からは、例の雫が滴って——
 逃げなければ! 咄嗟にそう思った。だが足が動かない。見れば革靴は半ば地面に埋もれ、両の脚はぴたりとくっ付いて仕舞っていた。均衡を崩して振り上げた両の腕は重たく、指先からぎしぎしと軋み始める。
 誰だ、お前は一体誰なんだ! 僕は必死で藻掻いた。それでも、大時計の振り子の様なそれから目を逸らす事は出来なかった。西川の云っていた女はこれなのか? こんなものを見たと云うのか!
 僕は半狂乱でばたばたと暴れ、何とか両の脚を引き抜くと、砕けそうな膝を叱咤して逃げ出した。後ろなど振り返らずに、真っ直ぐ直走るのだ。そしてあの橋を渡れば、家に帰れる。帰れるのだ——

 何処を如何走ったか分からない。それでも僕は我が家に辿り着いた。玄関に体当たりをする様にして漸く立ち止まる。そして乱暴に引き戸を引いて中へ滑り込み、後ろ手でぴしゃりと閉めた。
 「映介、如何したの。顔が真っ青よ」
台所で夕飯の支度をしていた母親が云った。未だ心臓が跳ねている。勢い余って口から飛び出しそうな程に。
 「水」
長い間を空けて、漸くそれだけ云えた。
 透明な洋杯になみなみと注がれた液体を呷る。あれは夢か? 春の妙な陽気が見せた白昼夢なのか? 夢ならば良い、これを飲み干せば醒める。岐度醒める——
 最後の一滴まで飲み干したが、果たして夢から覚めた気配は無かった。但、気持ちは幾らか落ち着いた。喉と胃の辺りが冷たい。失われつつあった感覚が戻って来る。
 僕は洋杯を置き、その手を見た。其処には薄紅の花びらも、深紅の痕跡も無かった。そうしてほっとしたのも束の間、
 「一寸貴方、砂だらけじゃない」
母親が顔を顰めた。成る程、格闘の痕跡は確りと残っていたのである。黒の詰襟は黄ばんだ砂埃を被ってすっかり汚れていた。蛇腹の縁取りにも砂が詰まっている。そう云えば、制帽が無い。何処で落としたのか見当もつかなかった。
「真逆、喧嘩じゃないでしょうね」
母親が目を吊り上げる。普段なら云い返す所だが、今は小言すら有り難く感じられる気がした。

 それから数日経って、僕は借りていた本を返そうと、図書室へ向かった。結局、あれから少しも読み進める事は出来なかったが、兎に角早く手放して仕舞いたかったのだ。
 「おお、優秀だね高崎君」
佐々木が大仰な口振りで迎えた。
「面白かったのか? 桜が何とかって話は」
「まぁね」
僕は適当に誤魔化して、佐々木が引き出しの中——貸し出し札の束を探る様子を見ていた。骨張った長っ細い指が素早く動く様は、それだけで一つの生き物の様にも見えた。
 すると、引き抜いた札を本に戻した彼が云った。
「西川、入院したのだってな」
唐突に西川の名を聞いて、僕は動揺した。
「ああ……矢っ張り」
だが一方で奇妙に落ち着いていた。まるで、そう成る事がずっと前から判っていた様に。  暫し僕らは黙り込んだ。窓から注ぐ日差しが陰り、室内が薄墨色に沈む。誰も何も喋らない。本の頁を捲る乾いた音だけが、ぱらりぱらりと響いている。
 不図、佐々木が沈黙を破った。
「彼奴のお袋さんが亡くなったの、丁度今時分の頃だったよな」
僕は目を上げた。佐々木の目は臥せられていた。縁起でも無い、と怒るべきだったかも知れない。しかしそうする事が出来なかった。
 自分でも拙い発言だったと思ったのか、佐々木は怖ず怖ずと口を開いた。
「俺さ、この時期になると思い出す事が有るんだ」
何だ、と訊くと、彼は目を上げた。
「西川の家の近くに神社が在るだろう?」
僕は黙って頷いた。神社と訊いただけで動悸がしてくる。厭な感じだ。それ以上聞きたく無い。否、聞きたい。聞かなくては——
「昔、其処の桜の木で女の人が首を吊ったのだってね」
 びちゃり。
 鮮烈な紅が落ちた。胸の奥深く、膨らみ切った蕾の上に。そして紅の一滴を吸い込み、淡く色付いた花弁がふうわりと開く。
 「何でも好きな男に棄てられたのだとかで——俺達が小学校に上がるかって頃だったらしいぜ」
お前は覚えているか、等と云う佐々木の声は最早耳に入らなかった。僕の脳裏には、花の渦の中、ぎいよぎいよと揺れる振り子の姿が張り付いていたのだ。まるで雫に磔にされた花弁のように、確りと。

 春休みを迎え、桜が彼方此方であの独特な光を振り撒き始めた。しかし西川が快復する兆しは無かった。見舞いに行っても、面会を許可される事は無かった。
 心底桜に毒されていた僕は、次々に花開く桜が彼の生命を吸い取っているのではないかと云う気がしてならなかった。
 「『桜の樹の下には屍体が埋まっている』って話、知っているか?」
 彼も病室から桜を見ているだろうか。
 「俺、あの話は本当だと思うぜ」
 それとも、夢の中で見ているのだろうか。
 「でなければ、あんなに見事に咲くものか」
 僕は想像した。
 眩い程に白い部屋の中、白い寝台に横たわる彼の、その上気した頬や唇が次第に色褪せていく様を。
 生温い風に、白い表紙の『ランボオ詩集』がはらはらと捲れる。
 その風に吹かれた桜が色付く程に、彼は白く成るのだ。
 あの振り子の女の様に、何処迄も透き徹る白い生き物に成るのだ、と。

 そして新学期も数日が過ぎた或る日の午后、人伝に彼が息を引き取った事を聞いた。
 「さくら」
 はらはらと舞い踊る薄紅に、掻き消えそうな告白。
 「あの女(ひと)はさくらだ」

 嗚呼、彼は桜に殺されたのだ。

(了)


出典
淀野隆三・中谷孝雄編(1966)『梶井基次郎全集 第1巻』筑摩書房