春眠

 ——不図、目覚めると汽車の中だった。否、自分は目覚める前から乗っていた訳であるが、どうも何処かで、例えば八畳の自室で仮眠を取っている間に、何者かによって、ポイと汽車に放り込まれたような、そんな違和感がある。
 窓の外を見やると、柔らかな日差しが差し込んでいる。花の香りを含んだ風が、私に春を運んでくる。長閑な田舎の風景が何処までも続いていて……嗚呼、これなら眠気を覚えるのも当然である。
 「春眠暁を覚えず、と云いますからね」
 突然の声にびくりとして向かいの席を見る。其処には妙に青白い肌をした痩せぎすの男が座っていた。視線が合った途端、男は苦笑とも、嘲笑ともつかぬ表情をした。
「やや、未だ目覚めていらっしゃらなかったようですね。驚かせてしまいましたか、」
済みません。急に声を掛けたりして、と男は畏まって謝罪を繰り返す。私は余程吃驚した貌をしていたのだろう。あの微妙な笑みは、私の貌が相当間抜けだったからに違いない。そう思うと、恥ずかしさがこみ上げてきて、逆に小さくなって顔を伏せる。
 その時、彼の膝上の包みが目に留まった。とても大切な物なのだろう。膝に乗せていると云うよりは、両腕でがっちりと抱え込んでいると云う風である。
  ——遺骨だろうか。
 いかにも、と云うような白くて四角い包みである。
 私は男の貌をチラリと見た。パッと見ただけでは克く解らなかったが、見た目程年を取っているわけでもなさそうである。恐らく私と同じ位なのだろう。ただ、草臥れた背広と窶れた貌の所為で、十は老けて見えた。
  ——母親か、父親か……
 私は既にその包みを遺骨だと決め付けていた。
  ——屹度母親の方だろう。
 彼は母親に似て病弱で、その母親は田舎で療養していたが看病の甲斐もなく……
  ——何とも陳腐な。
 自分の想像に、思わず忍び笑いを漏らしてしまう。
 「どうかしましたか」
男が怪訝そうに顔を覗き込んだので、慌てて首を振る。
「い、いえ……何でもありません。それより——」
その包みは何ですか、と云いかけて呑み込んだ。
  ——別に何だって関係ないではないか。
 見知らぬ人に対しての質問としては不躾だと思ったし、もし遺骨だったとしたらお悔やみの一つも云わなければなるまい。それはお気の毒に、などと精一杯不幸そうに云うことしか出来ない位なら、最初から何も訊かない方が好いだろう。
 すると、男の方が尋ねてきた。
「貴方はどちらまで行かれるのですか」
答えようのない質問に私はへどもどした。
「ど、何処へと訊かれても……」
私はこの汽車が何処行きなのかさえ知らない。抑も、自分が何故これに乗っているのかすら、皆目分からないのである。
 すると彼は、困りましたね、と笑った。
 「では一時乗っていたら好いでしょう。そのうち分かりますとも」
無責任な事を云って、彼はそれきり喋るのを止めてしまった。
 そこで初めて、私はまじまじと彼の貌を見た。皮膚には張りがあるものの、眼窩は酷く落ち込んでおり、その双眸は炯炯と、さながら硝子玉である。実は遙かに年上なのかも知れない。
 そんな事をあれこれ想像し乍らも、私の気持ちはずっと白い包みに集中していた。彼の痩せさらばえた白い手が、しっかりと抱え込んでいる筺。
  ——しかしまた、何故あれ程までに。
彼の様子は尋常ではない。彼の手が白いのは、可成の力を込めている為なのだ。その眸は少しでも箱に触れる物があれば、忽ちのうちに殺してしまうぞ、と云わんばかりに妖しく煌めいている。例え死んでも放すまい——そう云っているように見える。
  ——それ程に大事な筺の中には、一体何が、何が入っているのだろう。
 一度疑問を抱くと、無性に中身が知りたくなった。
  ——さて、どうやって聞き出そうか。
 何とかして自然に聞き出せはしないものかと考えたが、そんな苦労をせずとも、契機はすぐにやってきた。
 「ああ、もしかするとこの包みが気になりますか」
男が包みの上を軽く叩き乍ら云った。あんなにじろじろ見ていれば気付かれない筈はないのだ。私は恐縮しつつも、矢張り気になることは確かなので、素直に頷いた。
 すると、彼は包みをさすり乍ら奇態な笑みを浮かべ、誰かに聞かれるのを警戒するかの如く周囲を見回した。つられて私も辺りを見遣ったが、近くに人の気配は無かった。
 彼は一人満足げに頷き、囁くように云った。
「この中にはですね、私の夢が詰まっているんですよ」
そして亦、にたりと笑う。
「ゆ、夢というと、その、」
次第に目の前の男が酷く気味悪く感じられてきた。
「希望とか、そういう、意味での……」
まるで文章になっていない私の言葉を何処まで理解してくれたのかは疑問だが、彼は嬉しそうに二三度頷いた。
「そうです、希望ですよ。これは希望の筺なのです……貴方、何か願い事はありませんか」
突飛な話に、私の動揺は更に酷くなる。
「ね、願い事、ですか。ええと、……き、急には思いつかないな」
「よゥく考えてみてください。人間誰しも一つは願いを持っている筈ですから。いえ、願いを、欲を持たない人間などいないでしょうね。少なくとも、僕が出会った人間は皆、欲深い者ばかりでしたよ」
彼の眼は、水面に映った星影をいっぺんに集めたような光を宿している。それに、口調もいつの間にか変わっている。心の奥底を撫で回すような、嫌な調子で響くのだ。
  ——何なんだ、彼は一体何者なんだ。
 「少し、時間をくれませんか。如何も、頭が痛くッて」
とにかく落ち着きたかった。落ち着いて、どうするかを考えたかった。
「時間、好いですとも、少しと云わずに幾らでも差し上げますよ」
そう云った後、男は徐に包みを開き始めた。
 「この筺に向かって願い事を云いますとね、叶うんですよ……時間、時間と云いましたねェ」
私は彼が勘違いをしていることに気が付いた。
  ——真逆、僕が望んだものが時間だと思っているのではなかろうか。だが、例えそうだとしても、時間など如何やって……
 目の前の男は、包みの結び目を解くのに苦労している。長い爪を立てて引っ張るが、一向に弛む気配はない。それ程に固く結んであるのだ。これは暫く開かないだろう。
 その間、私は考えを巡らした。
  ——如何する、この場を逃げ出すか、それとも、この男が願いを叶えるのを見届けるか……
 大きく息を吸って瞑目する。
  ——彼は私が時間を望んだものと思っている……時間など貰って如何しようと云うのだ。
 それこそ今の私には必要ない物ではないか——
 「あぁ、やっと解けましたよ……」
眼を開くと白い布が捲れて、中の筺が顕わになった。そして、男が慎重に蓋を開ける——
  ——何なんだこれは。
 私は瞠目すると同時に鋭く息を呑んだ。激しい動悸を覚える。
 筺の中のそれは、幽かに動いていた。一定の間隔で、びくり、びくりと、まるで拍動だ。
  ——生きている。この筺は、生きている……
 顔を背けたいのに、私の眼は異形の物に釘付けになった。
 「こ、これは、」
 何だ、と云いたいのに、口の中が乾いて声が掠れる。
 びくり、びくり、びくり。
 「サァ、何を躊躇しているのです。何でも好いんです、何でも叶うんです」
そう云う彼の表情は分からない。私の眼には奇怪な薄桃色の肉塊しか映っていなかった。
 どくり、どくり、どくり。
血液が、噴き出しそうな位の速さで全身を駆け巡る。躰が熱い。そして、胃を引き絞られるような強烈な吐き気。
 「さァ、願い事を云ってください。」
 男が、白蝋のような顔を近付けてくる。その双眸は、私を見てはいなかった。
  ——此処にいてはいけない。
 私は直感を信じて逃げ出した。引き留める声が、幽かな風に乗って届いたが、振り返りもしなかった。兎に角、あの男から離れたかった。あの異形の筺から……
 がらんとした車内を駆け抜ける。一体自分が何両目にいるのかも分からなかったが、先頭車両に向かって只管進んだ。
 途中、立ち止まって辺りを見回す。自分以外に乗客がいない事を知って、急に心細くなった。右も左も分からない異国に、独りぽつんと立っているようで、大変怖くなった。

 「貴方はこの汽車が何処へ向かっているのか、もうお分かりなのではありませんか」

 隣の車両に移った時、声が響いた。立ち止まって見回しても、誰もいない。
 すると又、声が響いた。
「私にはそう思えるんです。貴方は承知の上で乗っている。それとも、そうだと認めたくない……」
 私は最後まで聞かずに、再び走り出した。
 車内は変に薄暗い。外が明るすぎる所為かも知れない。実際、本当に眩しい位明るいのである。景色さえも克く見えない。
 白い。
 全てが白い。
 目覚めて始めに見た田舎の景色など、何処にもない。
 何だか朦朧とした、およそ景色とは言い難い、陽炎のようなものが延延と続いている。
 次第に眩眩としてきた。
 眼が鈍く痛み始めて、外を眺めるのを止めた。暗い車内が更に暗く感じられる。幾度か瞬きをしているうちに眼が慣れてきた。そして、やはり車内には誰もいないことを再確認する。
  ——誰もいない。
 この列車には、誰も乗っていないのだ。
 そう、私と、あの男以外は——
 走って火照った躰が、急激に冷えてゆく。
 今にも背後の扉が開いて、男が現れるような気がした。絶望の淵に追い詰められた私には、立ち向かう術がない。最後の抵抗も出来ぬまま、あの筺の餌食になってしまうのか。
  ——降りよう。
 これ以上この汽車に乗っていても、あの男からは逃げられない。だが乗車口が見つからない。無いのだ。どの車両も、窓しかない。
 そして、自分のいた処から五両目の中頃まで来た時、あの声がした。
 「何をそんなに急いでいるのです」
振り返ると、そこには黒い背広を着た痩ぎすの男が座っていた。
「乗り過ごしたのですか」
膝の上には生ける筺。
「途中下車は出来ませんよ……」
  ——何てことだ。
 薄笑いを浮かべる男を振り切るように走り出す。
  ——如何なっているんだ!
 力任せに扉を開け、次の車両に入る。其処は先頭車両だった。
 やはり、誰もいない。
 ただ、その車両は他と違っていた。
  ——出口だ。
 漸く乗車口を見付けた私は些か安堵し、息を整えた。
 何としてでもこの汽車から降りたい。強い願望と背後から迫る恐怖が、扉に手を掛けさせる。大きく息を吸って、思い切り開け放った。
  ——馬鹿な!
 私は息を呑んだ。どこかで予期してはいたものの、思わず後ずさりをしてしまう。
 汽車は、霧とも雲ともつかぬ朦朦とした物の上を走っていた。底が見えない分、余計に恐ろしい。此処から降りれば、確実に全てが終わるだろう。そして目覚めたら、いつもの、何もないが平穏な日常が待っている筈だ。
 「そう、その通りです」
 その声の主が誰だか、振り返らずとも分かった。
 「何もない平穏な日常。貴方が逃げ出した日常……」
  ——この汽車に乗っていれば、何処かには行けるはずだ。
 「貴方は何処へ行くつもりだったんです」
  ——それが何処であるかは分からない。行ける処へ行けるだろう。
 「此処ではない何処かへ」
  ——しかし。
 「私は、汽車を乗り間違えたようだ」
 私は意を決して身を乗り出した。

 「では、さようなら」

 吸い込まれるような感覚。
 見えない手で背中を押されたように、私の躰はふわりと宙に躍った。
 できるなら、地面に叩きつけられる前にこの悪夢から目覚めたかった。
  ——否、むしろ粉粉に砕けても構いはしない。
 今か今かと激突の瞬間を待った。しかし、中中地上に到着しない。相当な高さであったのだなあ、と呑気なことを考える。
  ——もし、あのまま汽車に乗っていたならば、何処へ辿り着けたろう。

 「貴方はこの汽車が何処へ向かっているのか、もうお分かりなのではありませんか」

 あの男の言葉が思い出された。
  ——そうだ、私は知っていた。
 知っていたから乗ったのであるが、結果的には途中下車を選んでしまった。果たしてそれが正しい選択であったかどうかは分からない。しかし、これで元の世界へ戻れるだろう。
 私は落ちてゆく。下界へ、地上へ……其処はどんなに酷い世界でも、あの汽車の終点よりは幾らかましであるに違いない。

 「果たして、そうでしょうかね」

 遠くで何か囁き声がしたが、風を切って落下する私には聞こえなかった。
 頭の中は、久し振りに故郷へ帰るときのような懐かしさと安堵感で一杯だったのだ。

 そう、墜落して、再び目覚めるまでは。

(了)