陽炎の幻術

 或る夏の日。僕は補習授業を受ける為に、学校へ向かっていた。
 途中、何度も欠伸をする。太陽と蝉は寝起きが良いらしい。日差しは白く、睛を灼く程だし、蝉はあちらこちらで大合唱だ。
 重いバッグを背負って歩いている。辞書が入っている所為で、格段に重く、グイグイと肩に食い込む。普段は自転車なのだが、今朝乗って数メートルも行かないうちにパンクしてしまったのだ。まったく、ツイてない。
 アスファルトが火にかけたフライパンのように温まり、油の代わりに蝉の声が弾ける。見馴れた景色が奇妙に歪んで、いつも自転車でかっ飛ばす道が、ほんの少し違って見える。何処がどう違うのかは、分からない。ただ、しっかり歩かないと取り込りまれそうな気がした。
 やっと坂道に差し掛かった。決して急勾配ではない。寧ろなだらかなのだが、緩すぎて、かえって疲れるのだ。
 もかもかと集まった陽炎を掻き分け乍ら、だらだらと上っていく。
 蝉の声が、灼けた皮膚に沁み込む。
 汗が一筋、背中を流れた。
 その時、坂が水飴のようにくにゃりと曲がった。太陽が眩しいので足元を見て歩いていた僕は、それに気が付かない。その儘曲がった坂を上っていく。
 上ってのぼって、上り切った時、漸く変化に気付いた。目の前には、見たこともない景色が広がっていたのだ。道を間違えたのかと思い、坂を下ろうと慌てて踵を返した。だがそこに坂は無く、白くゆらめく道が延延と続いているだけだった。ああ屹度、陽炎が道を歪ませたのだと思いかけて自嘲する。
 さて、如何したら元の道に戻れるだろう。もと来た道は戻れそうにないので、取り敢えず目前に続く道を歩き始める。周囲は絵に描いたような夏の風景。かき氷のシロップのような青空に、綿アメのような入道雲。白い太陽はその綿アメから金の糸を紡ぎだし、碧の風が輝く帯を織る。大気はその煌めきを羽織って、蝉時雨に踊る。
 暫く歩くと、緑のトンネルが見えてきた。それは濃緑の葉を茂らせた桜であった。左右から枝が張り出し、長く、小暗いトンネルを作っているのだ。出口は遠く、真っ白に光っている。
 僕は恐る恐る足を踏み入れた。途端に、蝉時雨のシャワーが降り注ぐ。僕は忽ちのうちに蝉時雨色に染まってしまっただろう、と木漏れ日にちらつく自分の肌を見ながら、歩き続けた。
 いつもの数倍長くかかって、遂に出口に辿り着いた。ところが、近付いても出口は白くもやもやとしていて、向こうが見えない。光の所為だと思っていたのに、どうやら違うらしい。その証拠に、そこから先へは進めないのだ。透明な、柔らかいクッションのようなものに阻まれてしまう。何度か体当たりしたが、その度に弾かれてしまい、通ることが出来ない。蝉の声は相変わらず降り注いでくる。薄い皮膚の裏側まで沁み込んでゆく。
 引き返すしか無いのか——出口を目前に諦めかけた時、背後から声が近付いてきた。
 「もっと速く! でないと終わってしまうよ」
振り返ると、二人の少年が走ってくるのが見えた。
「待ってよ、僕、そんな速くは、走れないんだ」
「何だい、そんな弱い足をしているからじゃあないか」
「そんな事、云ったって……」
一人が未だトンネルの半ばにも来ていないうちに、先を走っていた少年はもう僕の目の前にいた。出口からの光が照らし出したのは、空と同じ色の睛をした利発そうな少年だった。髪は太陽の光の色。真っ白い風変わりな服を着ていて、肌は玻璃のように透き通っている。
 「君は人間か?」
佳く通る澄んだ聲。僕は咄嗟に返事が出来なかった。すると、彼は僕を色色な角度から見回して、
「うーん、確かに人間みたいだけど……どちらかと云えば<僕ら>に近いのかな」
と、独り言のように呟いた。それから後ろを振り返って、立ち止まっているもう一人に向かって叫ぶ。
「おい! 何してるんだ? 急いでくれよ、置いてゆくぞ!」
そう云われた少年は再び走り出した。けれども、さっきより更に勢いがない。
「……まったく、リリュイには困ったものだよ。先が思いやられる」
君もそう思わないか——彼は僕に笑いかける。そう云われても、何の事だか解らないので返事のしようがない。けれども、その少年が返事を期待して訊いたのではないようなので、僕は黙っていた。
 そうしているうちに、漸くもう一人が追いついた。先に着いた少年よりも更に小柄で、ひ弱そうに見える。
「足が、軋んできた」
そう云う少年の膝は、がくがくと震えている。
「だから云ったろう? 他の皆と来たって良かったんだ。……その足じゃこれからの旅は辛いな」
「だってぼく、トリュイといっしょに行きたかったんだ」
小さい少年は今にも泣き出しそうだ。薄い瞼から青い睛が透けて見える。やはり、彼らの躰は玻璃で出来ているに違いない。
 「リリュイ、泣くな。この祭典が終わったら新しい躰になるんだ。そうしたら今までよりもうんと速く走れる」
大きい少年トリュイはそう云って、小さい少年リリュイを宥めた。
「ほんとうに? そうしたらぼく、トリュイみたいになれるかな」
なれるさ、と頷いたトリュイは、そこではっとした。
「ああ、こんな事をしている場合じゃあない。急がないと無くなってしまう」
そう云って、彼はリリュイを先に出口へ押しやった。すると、リリュイの躰は透明なクッションを難無く通り抜けたではないか。そして次にトリュイが通り抜けようとして、一旦僕を顧みた。
「……どうだい? 君も行かないか」
金色の髪が光を弾く。僕は頷いた。元の路へ戻りたいと云うよりは、寧ろ彼らに対しての好奇心の方が勝っていたのだ。
「じゃあ、先に行って」
僕は背中を軽く押された。
 あまりの眩しさに眼を閉じ、再び開くとそこは広い野原だった。色彩彩のテントのようなものが立ち並び、沢山の人がいる。彼らもまた、二人の少年と同じような格好で、同じような髪の色をしていた。
「お祭りなの?」
トリュイに訊いてみる。
「まあ、そんなものさ。それより、急がないと。……君はリリュイと待っていて」
先程から何を急いでいるのか、彼は風のような速さで走っていった。彼が向かった方を見ると、何やら一段と大勢の人集りが出来ている。
「あれは何なの?」
足を気にしているリリュイに訊く。
「出店だよ。夏を味わうの」
ふうん、と頷いた僕に、今度はリリュイが訊いた。
「きみたちはどんなふうに夏を味わうの?」
僕は返答に困った。夏の風物詩を訊いているのだろうか。味わう、という言葉から食べ物しか思い浮かばない。
「ええと、他の人は如何だか知らないけど、僕は西瓜を食べる時に夏を感じるよ」
と云うと、リリュイは小首を傾げた。
「すいか?」
「ああ、ええと、西瓜って云うのは、果物で……否、本当は野菜なんだけど——」
「ややこしいんだね」
「そうだね、まあ、兎に角それを冷やしてさ、こう、囓る」
と、両手で持ってかぶりつく真似をしてみせる。
「すいかは知らないけど、それならぼくらも同じだ。夏ならではのものを体に取り込むことで、夏を大いに楽しむんだ——あっ、トリュイ!」
 トリュイが何かを持って帰ってきた。そして先ずリリュイにそれを渡す。
「これだよ、ぼくたちの目当てのもの」
次に僕にも渡してくれた。手の平に包み込める程の小さな洋杯に、透明な液体が入っている。光に翳すと、朦朧と陽炎が舞っている。
「僕らは夏にはこれを飲んで次の旅を続けるんだ」
「旅をしているの?」
「そう。今は夏をせいいっぱい楽しむの。それからまた旅をするの」
トリュイとリリュイが交互に答えてくれる。
「これは僕らの楽しみなんだ。これを飲むと、躰が夏で満たされる。さあ、君も飲んだらどうだい。一気に飲(や)るのが好いんだ」
少し不安があったが、透明な涼しさに誘われて、僕は一気に中身を飲んだ。
 先ず弾けるような刺激。それと共に広がる清涼感と幽かな甘味。そして、あっと云う間に蒸発してしまったかのように、後味はない。
「……真逆、本当にやるとはな」
トリュイの聲はやや呆れた感じだった。
「トリュイったら! ……きみ、大丈夫?」
何が大丈夫なのか解らないが、何でもないので、
「平気だ」
と云ったが、聲が掠れる。何だか躰が温かくなってきた。きっと、躰が夏でいっぱいになるんだな——
「トリュイ、ダメだよ。彼は人間なんだよ」
遠くでリリュイの聲がする。
「いや、こんなに効くとは思わなかったんだ」
軽い笑い声。
「あーあ……だってこれ、アルコォルなのに」

 アルコォル? ああ、お酒のことか

 ——えっ、お酒だって?

 途端に躰が焼けるように熱くなってきた。
 
 如何しよう。体中が、夏だ。

  エースケ

 誰かが僕を呼んでいる。

  エ イ ス ケ


 「映介、高崎映介ッ!」
怒鳴り声に飛び起きる。顔を上げると、目の前には脂ののった先生の顔。
「高崎、おまえは何の為にここにいるんだ? 幾ら暑くて怠くて俺の授業がつまらないからッて、補習授業に来て寝る奴があるかッ!」
先生は首に掛けたタオルで頻りに汗を拭いながら怒鳴った。くすくすと忍び笑いが聞こえる。
「すみません……」
僕は頸を竦めて苦笑い。

 教室の窓枠の外は、いつもと変わらない光の海。
 太陽は糸を紡ぎ、風は煌めきを織る。
 白く乾いた校庭に、二つの影。
 蝉時雨で夏色に染まった光の少年。
 よく見たならそれは、陽炎だったのだろうか。

 「高崎ぃ! 外を見るな、先生の目を見ろッ!」

 僕の夏は、まだまだ、続く。

(了)