舞台裏

 ——喜歌劇(ミュージカル)よりも歌劇(オペラ)の方が好きなのに。
私はそう思いつつ、蘇芳色の緞帳を見つめた。天鵞絨(ビロウド)の様な光沢のある幕の向こうに、何が現れるのか。
 ——どうせ亦、訳の解らない劇なんだろう。
芸術鑑賞会と云う位なら、もっと芸術的なものを観せて欲しいものだ。だが、文句を云いつつも心の何処かで期待していることは確かだった。今回は面白いかも知れない。早く開幕して欲しい、と願っている。
 私は騒騒している劇場内を見渡した。折り畳み椅子を閉じたり開いたりしている者、後ろ向きに坐って喋っている者、これ程煩い中で一人熟睡している者——私は彼が少し羨ましくなった。ふう、と溜め息を吐いて、背もたれに身体を沈める。
 ——でも、此処で眠ったら首を違えそうだな。
欠伸をすると、隣の春紫音(ハルシオン)が興奮気味に話し掛けてきた。
「ねぇ、どんな劇なんだろう。きっとすっごいのだろうなぁ」
春紫音には、どんな些細な事も「すっごいの」にして仕舞う癖がある。彼の言葉を熱心に聴くのは無意味だ。何故なら誇張ばかりで、中味はちっぽけなものであるから。今までに何人彼の話に翻弄されたか知れない。だから何時も私は彼の言葉を上の空で聞いている。それだけで十分、話の内容は理解出来るのだ。彼は唾を飛ばし乍ら、私が聞いていようが何だろうがお構い無し、といった様子で喋り続ける。無理に聴かせない所がせめてもの救いだ。
 私は今回も知らぬ振りをして、彼の話をバックグラウンドミュージックの様に聞き流す事にした。
「そう云えば、昨日……が……で……だったんだって。それから……先生が……だってサ——」
亦長長と話すつもりらしい。半ば呆れていると、開幕の音が響き渡った。
 私は再び緞帳に注目した。それは静かに、ゆっくり上がってゆく。私はその勿体振った速度に、自烈たくなった。身を乗り出したいのを辛うじて抑え乍ら、舞台を食い入る様に見つめる。隙間から蒼い光が漏れ、劇場内が少しずつ、蒼で満たされてゆく。水槽に水を足すのに善く似ている。
 その光が間近に迫り、私も蒼くなったその時、一切の音が消えた。先刻まで騒然としていた筈が、水を打った様に静かになっている。
 ——耳が痛い……
耳を押さえようとしたが、手が動かない。それだけではなく、足も首も、全身が動かないのだ。私には只、蒼い舞台を見つめることしか出来ない。冷や汗が顎を伝う。瞬きをするのも儘ならない為、次第に睛が乾き、痛くなってきた。私は心の中で叫んだ。
 ——助けて、誰か、助けて……!
刹那、眼の前が真ッ暗になった。


 漸く視力の戻った睛が最初に映したものは、中世の貴族の様な格好をした子供だった。レースの付いた襟の大きな襯衣(シャツ)、青い繻子のリボンに翠玉(エメラルド)付きの留め針、紺の天鵞絨の半ズボンという出で立ち。まるで博物館で見た西洋人形(ビスクドール)だ。
「皆様、幻想座へようこそ……」
どうやら耳も正常だ。好く通る少年の聲が、壁にぶつかって反響する。変に響くな、と又辺りを見回した私は、奇妙な感じに襲われた。周囲には同じ制服を着た生徒達が、行儀好く坐っている。それは好い事だ。だが、知った顔が見当たらない。何故か彼等の顔は暈した様に見え、誰が誰なのか全然解らないのだ。隣の春紫音も、本当に彼なのか……
 瞼に微かな痛みを感じ、両手でそっと押さえた。眼球が一回り大きくなった様な気がする。
 ——先程の光の所為だろう。
私は一人納得し、視線を舞台へと戻した。その際に、舞台上の少年と睛が合った。随分離れているのにも拘わらず、少年の電気石(トルマリン)の睛が好く視えた。
「……では、『舞台裏』をお楽しみください」
少年は深深とお辞儀をし、舞台から去った。入れ替わりに赤髪の少年が飛び出てきた。
「ああ、何か面白いこと、ないかなぁ」
そして反対側から銀色の髪の少年が現れる。
「そうだな、何かわくわくするようなこと、起きないかな」
手で目庇を作って客席を見渡す。
「あっ、見つけた!」
銀髪の少年が舞台から飛び降り、客席の方へ駆けてきた。その後に赤髪の少年が続く。
 ——劇場全体が舞台だなんて、大掛りな芝居だな。
そう思った直後、私は半分腰を浮かした。駆けてきた二人の少年が消えたのだ。慌てて席を立って探すが、見つからない。そればかりか、周りに居た筈の生徒達まで忽然と消えているのだ。私は焦った。
 ——真逆、野外劇場でもあるのかな……
最後方の僅かに開かれた出入り口から、外の光が漏れている。皆何時の間に出て行ったのだろう。私は扉へ向かって走った。


 外に出た私は吃驚した。天(そら)がもう蒼紫色に塗り変えられていたのだ……出入り口から差し込んでいたのは陽の光ではなく、弧光(アーク)灯の光だったのである。赤煉瓦の建物の屋上に痩せた月が止まっていた。
 私は腕の時計を見た。丁度六時を示している。劇場に入ったのは朝の九時だった。
 ——あれから九時間も経っている。
納得出来ない。何時の間にか眠って仕舞ったのだろうか。それに何か、妙な違和感がある。自分は確かに此処に居て、これは現実だと認識しているのに、周囲では現実には在りえない事ばかり起きている様な、そんな感覚。
 それは街中に出ても同じだった。善く知っている普段の街なのに、何処か余所余所しく、擦れ違う人人の顔にはフィルタが掛かっている。何か変だ。空気さえもぎこちなく、私を拒んでいる。
 ——夢を見ているのかな。演劇が余りにつまらなくッて、あの熟睡していた子みたいに眠って仕舞って……
すぐ側を路面電車(トラム)が通り過ぎる。違和感が増した。
 ——おかしい。
今一度時計を見た。髪の毛の如く細い秒針が時を刻んでいる。私はそれを確かめると耳元へ近付けた。
 ——ああ、そうか。
私は違和感の原因を突き止めた。
 ——音が無いのだ。
路面電車が走る音、パンタグラフが擦れる音、車輪の悲鳴も聴こえない。人人の会話も、靴音も……そして、時計の音も。
 私は歩き出した。夢なら何時か覚めるだろう。その時まで、この変な世界を散策してみよう、と。


  今まで黙黙と作業をしていた音響係が、突飛な声を上げた。
 「如何した」照明係が尋ねる。「何かあったのか」
 音響係は焦りで少少吃りながら云う。
 「お、音だよ、音。出ないんだよ……ス、拡声器(スピーカ)が壊れて仕舞った」
 「何だって、直るのか」
 「い、今やっているけど、少し時間が掛かりそうだ」
 照明係は深い溜め息を吐いた。
 「なるべく早く直せ」
 「わ、解った」
 小太りの音響係は、身体を揺すり乍ら道具を取りに行った。


 「何だかお腹が空いたな」
街角の麺麭(パン)屋から芳ばしい匂いが漂ってきた。行きつけの店である。故に私は店員を善く知っているし、店員も私を善く知っている。漸く知っている人に会えると思うと嬉しかった。
 扉を開ける時のカラン、という音はしなかったが、店の雰囲気はいつもと変わっていない。長い旅から家に帰って来た心境だった。だが——
 「…い……いらっ…しゃい」
小母さんはいつもの笑顔だが、聲が壊れたラジオから出ている様で、薄気味悪い。私は少少躊躇ったものの、空腹に耐えられずに「堅焼き麺麭一つください」と云った。ところが、口から出たのは小母さんと同じく、周波数の合わないラジオの音だった。
 それでも小母さんには通じたらしい。にこりと笑って、麺麭を薄い紙で包んだ。私はポケットから銅貨を出すと、それを受け取った。焼きたてで、温かい。
「…あ…あり……がとう…」
 私は店から出て、近くの噴水のある広場へ向かった。


  「な、直ったよ。直った」
 音響係が聲を弾ませる。照明係は安堵の溜め息を吐いた。
 「好かったな」
 「未だ雑音が入るけど、じきに元どおりサ」
 そう云って道具を片付けていると、扉が乱暴に開き、大道具係が飛び込んできた。
 「た、大変だ!」
 それだけ云うと、乱れた息を整えるのに集中する。照明係は大道具係が落ち付くのを待って「何事だ」と問うた。
 「つ、月が……落ちて仕舞った」
 「えっ」
 音響係が素頓狂な聲を出す。
 「何故」
 「鋼縄(ワイヤ)が切れたんだ。一寸留守にして、戻って来たら金具が残っているばかりだった」
 三人は暫く沈黙し、音響係と照明係は、各各顔を見合わせると同時に呟いた。

 「……大変だ」


 私は噴水の前の椅子に腰掛けて、麺麭を食べていた。音は何時の間にか戻っていて、水が流れる音も正常に聴こえてくる。お腹が満たされて、紺碧の天を眺める。痩せた月は、すぐ側の鉄塔の上に乗っていた。
「天が低いな……」
今なら軽く跳んだだけで、あの金平糖の星を掴むことが出来るかも知れない。
 長い間夜天を見ていると、一寸見ただけでは気付かない程小さな星も明るく見えてくる。やがてはその瞬く音さえ、聞こえてくる様な気分になるのだ。私は星星の囁きに耳を傾け、一人夢の世界に浸っていた。ところが、

 ブツン

何かが切れる様な音がして、私は夢の世界から引き戻された。そして、窓の隙間から吹き込む風の口笛に似た音が聞こえてきた。口笛は次第に大きくなる。近付いてくる。
 ——上だ。
天を仰いだ私は見た。暗藍(コバルト)の天に輝いていた月が、光の線を引き乍ら落ちてくる様を……鶴嘴にも見える鋭い月は、大地を揺るがして垂直に地面に突き刺さった。
 夜の街は大騒ぎになった。皆は狂乱し、「神の怒りだ」「世界の終わりだ」等と口走って右往左往している。
「そのうち太陽も降ってくるんじゃないか……」
呆然と突ッ立っていた私の隣で、誰かが呟いた。
 ——何を云っているんだろう。これは月なんかじゃない、月の形をした電飾(ネオン)か何かだ。
それの上部には太い鋼の縄が付いているが、途中で千切れている。
 ——古いのか……
月は消したばかりの電飾の様に淡い光を発している。私は化学の実験を思い出した。これは巨きな放電管だ。
 周囲には既に人集が出来ていた。
「何だ、何だ」「あれは何かしら」「月が落ちたって」
騒めきが大きくなる。
「本当か」「天を見ろ」「月が無いわ」
私も天を仰いだ。
 ——本当に、無い。
全身が粟立った。突き刺さった月に目を落とす。
 ——これは本物の月なのか。
そして絵の具で塗った様な天を再び仰ぐ。私はその天の端じっこに裂け目が出来ているのを見つけた。本当に裂け目かどうかは解らない。が、其処から誰かが覗いている様な気がした。気味が悪くなって裂け目から目を逸らすと、月を挟んだ向こう側に、舞台挨拶をしていた西洋人形の顔が見えた。少年は私に気付くと、俄に背を向けて人混みの間を擦り抜けて行った。
「待って」
追いかけようと走り出した私の手を誰かが引っ張った。
「あっ」
そこに居たのは春紫音だった。
「何処に行っていたの」
春紫音はその問いには答えなかった。只、いつもの彼には似合わない真面目な顔つきでこう云った。
「君は早く戻った方が好い」
何を云っているんだ、と云おうとすると、彼は私の腕を掴んだまま走り出した。案外力が強い。私は逆らえず、引かれる儘に人人を押し分けて進んだ。
 漸く弾き飛ばされる様に輪から出た時、春紫音が私を振り返った。
「早く戻ろう」
「待って、一体如何したの、戻るって、何処へ……」
「月が落ちた、もう終わりだ」
「あれは電飾じゃ、」
春紫音は私の言葉を遮った。
「月だよ、正真正銘、天の月サ」
言葉が出ない。それでは何だ、零れんばかりに輝いている星星も皆豆電球だと云うのか。
「兎に角、あの劇場まで戻るんだ」
春紫音の雰囲気がいつもと違った所為か、私は彼の云うことを素直に聞き入れた。


  「銀月(ぎんげつ)、怒られて仕舞うよ」
 赤い髪の少年が、先を歩く銀髪の少年に向かって云った。銀月は振り返らずに答える。
 「……そうだな、殴られるだろうな」
 「えっ」
 赤髪の少年が情けない声を上げる。銀月は笑った。
 「平気だよ、絶対露顕(バレ)ないって。……紅玉(こうぎょく)は心配性だな」
 「だって、月を落っことしたんだよ。僕達がやったって判ったら」
 銀月は煩いなあ、と云う様に振り返り、紅玉を真正面から見据えた。
 「黙っていれば判らないサ。誰も見ちゃいなかったんだ」
 銀月はでも、と云う紅玉の言葉を遮った。
 「考えてもみろ、大道具係は仕事を放棄(サボ)って何処かへ行っていたんだぞ。留守にした奴が悪いのサ。それに、あの鋼縄は切れかけていたじゃないか。放っておいた奴の責任だ。俺は少し触ってみただけだ、そうだろう」
 そう云われて紅玉は頷くしかなかった。そうだ、あの鋼縄は確かに切れかかっていた。危険な状態で放っておいた大道具係が悪いのだ。
 「さあ、行こう」
 銀月と紅玉は、細い裏路を足早に通り過ぎた。


 私は再び劇場へやって来た。隣で春紫音が呟く。
「何もかも、此処から始まっているんだ」
私は先刻から、どうも彼が別人だと云う気がしてならなかった。どう見てもあの頼りない、何でも大袈裟に話す気の弱そうな少年ではないのだ。
 私は、歪んでいるのかきちんと閉まっていない扉を引いた。中は一筋の光も無く、真ッ暗だった。怖じ気づいた私は入るのを躊躇う。
「さあ、早く中へ」
春紫音が半ば強引に背を押した。一歩踏み入れた途端、深い闇に囚われ、強い眩暈に襲われた。


 遅効性の麻酔を打たれたように、私の意識はゆっくりと、そして着実に蒼い深淵の底へと沈み始めた。
 海の中に居る様な感覚。体温と同じ温度の液体の中。只何かが流れていて、私の髪の間を擦り抜けて行く。

 巨きな流れ。

 渦を巻く巨大な流れ。

 この流れているモノは、
 
 時間なのかも知れない。

 私はやがて漆黒の底へ辿り着く。其処に在るのは一つの巨きな扉だ。真の暗闇で何一つ見えないのだが、その扉だけは、淡い光を発しているかの様に薄朦朧(ぼんやり)と浮かび上がっている。恐ろしい程に飾り立てられた扉。私は過去に幾度もこれを眼にしている。夢の中で。そして毎回、私はそれを開けて仕舞うのだ。
 ——開けてはいけない。
そう思っても、既に右の手は気味が悪い位に装飾された把手を掴んでいる。
 扉は自ずから開いた様だった。力を入れずとも、触れただけでいとも簡単に、音も無く——
中からは楽しげな音楽が流れてくる。私はその旋律に誘われて扉の奥へと吸い込まれた。


 其処はあの劇場だった。蒼い照明、水の無い海の中。誰も居ない。そう誰一人、春紫音も——
 突如、客席の一つに一点照明(スポットライト)が当たった。誰かが立っている。私はそれが誰だか知っていた。知らない訳は無いのだ。何故なら——
「幻想座へようこそ」
そう云ってお辞儀をしたのは、<私>だったからだ。
「私が、もう一人」
私の足は勝手に動き始めた。<私>に向かって、一歩一歩近付いてゆく。
 間近で見ても、その人は紛れもなく<私>であった。
「如何云う事なの」
眼の前の私は笑った。変だ。自分は笑っていないのに、鏡の中の自分は笑っている、そんな感覚。奇妙で仕方が無い。
 すると<私>は云った。
「私は貴方ではない。勿論、貴方は私ではない」
 ——当たり前だ。私はここに、一人しかいない。
「この世界に同じ人物は存在しない。幾ら顔や容姿が似ているからって、二人は全くの別人だろう。
でも演じることはできる。全くの他人になりすますことも簡単……」
<私>は自分の顔に手を掛けると、ゆっくり引き剥がした。
——西洋人形。
電気石の睛が綺羅ッと光る。彼は右手に私の顔を持っていた。善く見ると、それはセルロイドの仮面だ。
「この世界は全て即興で成り立っている、公演は一回きりの劇なんだ。予行(リハ)も無く、毎日が打っ付け本番。失敗したって演り直しは利かない」
彼は芝居がかった云い回しと、オーヴァーな身振りで熱弁を振るう。
「役者は君だ! <私>と云う人物を演じる役者——勿論、僕も役者だよ。この世に生きる全ての生き物が役者なんだ。だが同時に脚本家でもある……人生は演劇だよ。君が書いた脚本と他人の書いたそれとが微妙に交錯して、この世界は成り立っているんだ。……偶然だって誰かが意図的に生み出した産物サ」

 ギィィ

不意に頭上で厭な音がした。神経を逆撫でする金属音。
「何の音」
天井を見上げると、照明が一つ、ぶら下がって揺れている。私は落下した月を思い出した。すると西洋人形が喜々として云った。
「……この劇場ももう古いからね、あちこち傷んでいるんだ。月は落ちるし、星は消えるし……君も見たよね、天が剥がれて捲れ上がっているのを!」

 ギシッ

再度、何かが軋んだ。先刻とは違った音だ。
「今のは天が軋んだ音サ。どんなに太い鋼の縄でも、古くなると錆びて弱くなる。……そして、呆気無く切れて仕舞うんだよ」

 ギシッ

成程、軋みは外から聞こえるようだ。

『そのうち太陽も降ってくるんじゃないか……』

誰かの呟きも、今では実際に起こり得ると思った。どうしよう、ここから逃げられるのだろうか。夢なら、早く醒めて欲しい。
焦る私を余所に、西洋人形は落ち着き払った様子で云った。
「僕達はそろそろ他へ移ろうと思っているんだよ。此処はもうお終いだ」
「お終い、お終いって」
一体如何云う事なのか。
最後まで云わないうちに、少年は叫んだ。
「おい皆、もう行くぞ!」
「解ったよ」
「今行くよ」
「一寸待ってよ」
舞台裏で、数人の聲がした。劇団員だろうか——

 ギシッ

 天が軋む。

 ギィィ

 壁が軋む。

「次の公演が待っているよ」
 
 ギィィィィ

 天は愈(いよいよ)叫び出す。此処からは見えないが、恐らくあの裂け目から落ちてきているに違いない。
「何をしているんだ、早く、こっちへ!」
聲が上がった方を見ると、非常口の表示のある扉の前に春紫音が立っていた。
 ——今まで彼は何処に居たんだろう。
「早く、走れッ!」
その聲を引き金に、私は弾かれた様に駆け出した。壁が傾く重低音と、柱が倒れる金切声とが混じり合って一つの音になる。
 私は耳障りな顫音(トリル)を聴き乍ら疾走した。折り畳み椅子の間を抜けて、鉄の扉まであと数メートル。其処では春紫音が扉を半分程引いて待っている。
「早く、先に行って——」
叫び乍ら彼を扉の向こうへ押し遣った——つもりが、私が押したのは彼の背ではなく、冷たい暗青灰色の鉄扉だった。勢いで私の身体は扉の内へ入る。慌てて方向転換すると、閉まり始めた扉の向こうに春紫音の姿があった。彼の身体は、立体映像(ホログラム)の様に透けている。
「春紫音!」
名を呼ぶと同時に、彼は満足気に微笑んで掻き消えた。
 天は断末魔の叫びを上げ乍ら落下する。そして——ドォンという地の底まで届く様な大音響。それに対して扉は全く音を立てずに閉まった。


 私は眼を開いた。寝台(ベッド)の下に落ちた目覚まし時計が、けたたましく叫び乍ら小刻みに移動している。私は勢い好く起き上がると、寝台から下りて時計を黙らせた。叫び声が跡絶えた瞬間、軽い眩暈を覚え敷布(シーツ)の海に倒れ込む。暫く仰向けになって天井を睨んでいると、ふと先程まで夢を見ていたな、と思った。
 ——一体どんな夢を見ていたんだっけ。
思い出せない。賑やかなパレードを見ている時はその衣装の鮮やかさや躍動感に眼を輝かせ、心を躍らせているのに、次の日綺麗に片付けられた通りを見ると、もうあれ程眩しかった色達も、まるで何世紀も経た手紙の洋墨(インク)の様に色褪せて仕舞っていることがある。夢は丁度、それに似ている。見ている時は本当に現実的で、色も匂いも感触もそのものなのに、目覚めて仕舞うと、夢を見ていたこと自体を忘れてしまっているのだ。

 ——まぁ、好いか。

私は起き上がってカーテンを開けた。朝の光が一瞬、視力を奪う。そして私の睛が映し出した光景は——

 ——これは、既視感覚(デジャヴ)なのか。

 今にも落ちてきそうな、傾いた土耳古石色(ターコイズブルー)の天だった。

(了)