ミスタ・ポストマン

   トクハイ


 「失礼します!」
 特別集配係の部屋——と云っても、郵便課の一角をパーティションで区切っただけだが——に飛び込んだ時、係長の吾妻(アヅマ)氏は新聞を読んでいた。
「本日付けで配属になりました、上多美郵(ウエタミ・ユウ)です」
彼はほんの一瞬顔を上げ、宜しく、と返すと直ぐに元の姿勢に戻った。
 余りにあっさりとした応対に僕はまたしても拍子抜けしたが、此処は指摘される前に遅刻を認め、謝罪すべきだと思い至る。
「遅刻しました、すみません!」
副局長室での一連の動作を再現する。身体を直角に折り曲げ、其の儘三秒静止、バネの様に元に戻り、直立不動の姿勢で上司の反応を待つ。
「見れば解るよ」
相変わらず新聞から目を離さない上司の返答。
 ——此れはデジャ・ヴュか?
 其の手の物は頻繁に見ているが、違和感には少しも慣れない。
 ——もしかして、僕は未だ目覚めていないのじゃないか?
 そんな此方の動揺などお構い無しに、アヅマ氏は新聞を読み乍ら、旨そうにコーヒーを飲んでいる。色合いから見て、ミルクが相当入っている様だ。
「突っ立ってないで、座ったら」
彼は新聞から目を離さずに、部屋の片隅のパイプ椅子を指した。
「は、はい」
居心地の悪さを振り払いたくて、直ぐにでも仕事に取り掛かりたかった。だが忽ち、何をすれば良いのか、という疑問が僕の動きを止める。
「あの、一つ訊いても良いですか?」
 其処で初めて、アヅマ氏が真面(まとも)に自分を見た。何だ——銀縁の老眼鏡の奥で、円い目が然う問うている。
「ええと、副局長が、仕事に関する事は係長に訊いて呉れって——」
「何だ、然う云う事」
彼は新聞を畳んで、机上に無造作に放った。
「此処は特別集配係。略してトクハイって呼ばれてる」
「トクハイ」
口にしてみると、何となく格好良い響きだ。
「一体何をする係なんです?」
すると、彼は事も無げに斯う云い放った。
「まぁ、特別に仕事が有れば何でもやるけど、無ければ何にもしない係」
だから仕事が来る迄、好きな事やってな——然う云って、彼はミルクコーヒーを飲み干した。
 ——質の悪い冗談だ。
 だが此処は一つ豪快に笑ってみるべきかも知れない——そんな事を考えていると、アヅマ氏は僕の考えを読んだかの如く付け加えた。
「云っとくけど、今のは冗談じゃないよ」
「えっ」
「じゃなきゃ、朝っぱらから悠長に新聞なんか読めないよ」
ですよね、と僕は呟いた。呟いて、パイプ椅子に腰を下ろした。
 ——完全に閑職じゃないか。
 一瞬でも格好良いと思って仕舞った事を、僕は早くも後悔し始めていた。