lue saudade
ブルー・サウダージ

 世界中の土耳古玉を嵌め込んだような空の下に、何処までも果てしない荒野が広がっていました。
 荒野の真ん中には古い石の舞台があり、その上には、一人の若者が座っていました。彼の傍らには、金属でできた蜂雀が転がっています。
「夜になる前に此処を離れなければ……」
彼は蜂雀の羽を外して、空に翳しました。虹のかかった雲母のような羽は、日差しを浴びてキラキラと輝き、その眩しさに彼は目を細めました。
「ああ」
彼は、完璧に見えた羽の面に、僅かな亀裂を見つけました。
「君が風を掴めないのはこの所為か」
 若者は袋から何かの塊を取り出しました。幾重にも重なった雲母です。彼は慎重に一枚剥がし取ると、蜂雀の羽の亀裂の上に乗せました。大きさはぴったりです。
「よし」
若者は今度は小瓶を取り出しました。透明な玻璃の小瓶の中には、まるで夕焼けの海のように輝く液体が入っています。彼は矢張り慎重に瓶を傾け、剥がした雲母片に液体を注ぎました。そして、羽の亀裂の上に載せました。
「あとは乾くのを待つだけだ」
 彼は何とか夕暮れ前に発ちたいと思っていました。しかし例の液体は強力な接着力を持つ一方で乾くのが遅く、待っているうちに日は刻々と傾き、土耳古玉の空はいつしかその青さを失いつつあったのです。

 そして、燃えるリチウムのような太陽が傾きかけた頃。
 何処からともなく、すすり泣くような声が聞こえてきました。それも一人ではなく、大勢のようです。
「長居をしすぎたようだ」
若者は蜂雀の羽にそっと触れました。太陽の炎を反射する光の羽は、すすり泣きの声に共鳴するように、幽かに震えています。
「君、飛べるかい?」
蜂雀は無言で羽を震わせるばかりなので、若者は空を仰ぎました。炎に溶かされた土耳古玉は血のような紅玉に変わり、冷えた風に吹かれて、紫水晶の輝きを帯び始めています。
 若者は石造りの舞台から下を見下ろしました。すすり泣きの声は愈高く、荒れ果てた大地の、そのひび割れというひび割れから、まるで泉のように湧いてきます。
「苦しいのかい?」
若者は呟くように問いかけました。すると突如、大地は悶え苦しむかのように大きく揺らぎました。
「ご免よ。君たちがそんな姿になってしまったのは、僕たちの所為だ」
大地は怒りを剥き出しにして吠え猛り、裂け目はみしみしと広がっていきます。まるで、若者を飲み込もうとしているようです。
「……僕をも喰らおうと云うのだね」
 終に、若者の足下に細かなひびが入り始めました。風化した石が砂となって、パラパラと崩れていきます。若者には、まるで見えない巨人が、舞台にかぎ爪をかけて揺すぶっているかのように感じられました。
「いいだろう、それで君たちの怒りが鎮まるのなら」
若者は舞台の端から爪先を出して、両の腕を一杯に伸ばします。
「さあ、その爪で僕の身体を切り裂くがいい。この身を流れる血は僅かだけれど、少しの間は渇きを癒してくれるだろう」
彼は両目を見開いて、大地の裂け目を見つめました。
 その時、深い闇の中に、何故か母親の姿を見たような気がしました。
「かあさん……?」
彼が前に体重をかけたその時、ピシリと足下が崩れ、彼は重力に引かれるまま落下し始めました。

 どうん、と大きな音を立てて、石の舞台が崩れていきます。大地は黒い口をぱっくりと開けて、若者を待ち受けました。
一方の彼は、底知れぬ裂け目から目を逸らすことなく、真っ逆さまに落ちて行きます。久々に再会した母親を抱きしめるかのように両手を広げたまま、微笑みさえ浮かべて——

 「彼女は滅びるべきだ」

 何時かの誰かの言葉が、若者の脳裏を掠めました。

 「世界は浄化を望んでいる」

 朝日に輝く水面のような髪をした彼はそう云って、瑠璃玉のような目で若者を見据えました。若者は、その目に吸い込まれそうになった感覚を思い出しました。丁度今、落ちて行くのに似た感覚を——
 しかし、若者は彼の元を去りました。

 「彼女が滅びれば、貴方もまた滅びる運命です」

 すると、そうだよ、と云う別の声が聞こえました。

 「けれども私は滅びない。何故なら全てに存在するからだ」

 白い顔を覆う黒髪をゆらゆらと揺らして、彼女は云いました。

 「キラキラと光る忌々しい木漏れ日の下や、青ざめた殺人者の右手の中や、或はお前のその青い瞳の、水錆のような縞の縁にも」

 彼女は白い腕を伸ばして、若者の額に触れました。

 「私と一緒においで」

 「そうはさせるか!」

 闇に沈みつつあった世界に、一筋の閃光が走りました。世界は一瞬真っ白になり、大地の唸りがピタリと止みます。
 若者は身体を強く叩き付けられ、息を詰まらせました。しかし、次の瞬間に奇妙な浮遊感を感じ、目を開けました。
「君、飛べたね」
彼は金色に輝く蜂雀の背に乗っていました。ルルル、と羽ばたく蜂雀は、黒い裂け目の牙をすり抜け、急上昇します。
 蜂雀が雲雀のように飛び上がったのには、訳がありました。乾いた大地の裂け目から、突如、大量の水が吹き出したのです。水は後から後から湧き出て、薄茶けた地面は、あっという間に青黒い海になりました。
「僕はあのまま何処までも落ちて行っても良かった」
 渦を巻く海を見下ろしながら、若者は独り言のように云いました。裂け目の奥深くで、白い腕を広げて彼を待ち受けていた人——彼女は今でも、水底で優しい微笑みを浮かべているように思えます。
「彼女は永遠に独りだ」
若者は、青白い目縁に涙を浮かべました。
「そして、僕も独りだ」
 ぽろぽろと涙を零す若者を乗せたまま、蜂雀は飛びました。飛び続けるうち、金色の身体はいつしか光に包まれて、空を流れる星になったのです。


Sic itur ad astra.
星への道はかくの如し。