ark Arena 3
ダーク・アリーナ 3

 後退る足を止めた瞬間、娘は得体の知れない浮遊感に襲われました。まるで、深い穴を何処までも落ちて行くようです。
(来た)
突然の出来事にもかかわらず、娘は落ち着いていました。彼女は幼い頃から、しばしばこのような奇妙な体験をすることがあったのです。
 誰かに呼ばれて振り返った時や、暗がりから明るみに出た時、水を得ようと川を覗き込んだ時や、眠りに落ちるその瞬間——彼女の意識は急速に落下し、生暖かい水のような闇の中を、何処までも沈んで行きました。
 そしてその途中で、様々なものを見たのです。自分は知らない筈の古い記憶や、少し先の未来や、或は音も無く忍び寄る、禍々しき死の影を。

「別れましょう」
酔い潰れた男に向かって、女は云いました。
「心配しないで。私が出て行くわ」
しかし男は同意しませんでした。
「トリスは如何なる? 俺の娘だぞ!」
それを聞いた女は突然笑い始めました。
「今更、父親面?」
あまりの怒りの為に、却って笑えてくるのです。
「貴方があの子に何をしてやったって云うの!」
しかし有り丈の怒りを込めて叫んだ女は、もう笑ってはいませんでした。
「あの子は私の娘よ」
「何だって?」
男は少し酔いから冷めたようでした。言葉の真意を探るように、伏し目がちの女を見ます。しかし長い睫毛が陰を成し、男の視線を拒みました。
「如何云う意味だ? おい、こっちを見ろ!」
 怒鳴り声に女は目を上げました。黒真珠のような瞳で刺すように男を見据えます。
「貴方、今まで私に幾つ嘘を吐いたかしら?」
唐突な問いかけに男は戸惑い、黙りました。
「そう、答え切れない位よね——」
しかし女は怒るでもなく、微笑みさえ浮かべたように見えました。
「でも許してあげるわ。私も貴方に嘘を吐いたの」
そして、呟くようにこう云ったのです。
「あの子の父親は、貴方じゃないのよ」

「まさか!」
娘は息苦しさに耐えかねて、大きく息を吸い込みました。実際に水を吸い込んだかのように酷く咽せ込んで、その場に座り込みます。
「この売女め……」
父親は娘を睨み付けました。否、彼には妻にしか見えていませんでしたが——
「おまえの作った薬など飲めるか……この魔女め!」
 その時、娘の頭に或る考えが閃きました。
「ええ、私は魔女よ」
娘は母親に成り切ることにしたのです。
「火にかけられて、灰になった。けれど蘇ったのよ」
云い乍ら、ゆっくりと父親——否、夫に向かって行きます。
「ところで貴方、報奨金は幾ら貰えたの?」
「近寄るな!」
男は血相を変えて飛び退き、勢いで激しく転びました。しかし女は容赦しません。
「ねぇ、幾ら貰えたの?」
「か、金はもう無いぞ!」
「勘違いしないで。私が欲しいのはお金じゃないのよ」
何だか分かるでしょう——女が男を見下ろすと、怯える男は一心に許しを乞いました。
「許してくれ! こ、殺さないでくれ!」
それを見た女は一笑しました。
「殺さないわ」そして、改めて男を見据えます。「私が殺さなくても、あなたはもうじき死ぬもの」
女は、すっかり怯え切って小さくなった男の周りに、幾つもの影が目を光らせ乍ら跳び回っているのが見える気がしました。
「ほら、後ろに影がたくさん——」
 男は女が指し示した方をゆっくりと振り返りました。男の目に何が映ったのかは分かりません。ただ、彼は大きく目を見開いたかと思うと、声にならない叫び声を上げました。そしてばったりと倒れたまま、二度と起き上がることは無かったのです。

「私には影が見える」
女は何処か遠くを見るような目をしていました。母親譲りの黒い目が、箱のような船の僅かな隙間から漏れる光を受けて、きらりと光ります。
「過去や未来も少しは分かる。けれど、それが何時何処なのか、如何したら変えられるのか……そう云ったことは分からない」
 全てを話し終えた女は、暫く口を噤みました。老婆もまた黙っていました。船は相変わらず、何処までも続くような砂の海を奔っています。
 暫しの沈黙の後、老婆が呟きました。
「影は砂と同じ。僅かな心の隙間に入り込んで、あらゆるものを埋め尽くす」

 ——まこと、人の心は沙漠のようじゃ。

 女は老婆の言葉を思い出しました。乾き切った風に晒されてひび割れた壁の隙間から、黄金色の砂粒がさらさらと吹き込んでいる光景が目に浮かぶようです。
「あの村も、いつか砂に埋もれて仕舞うのね。そして人の記憶も埋もれて仕舞って、其処に何が在ったかなんて、誰にも分からなくなるのだわ」
 黒い布をすっぽりと被った女は、さながら影のようでした。老婆は女の肩の辺りに手を伸ばし、優しく撫でます。
「いっそ埋もれて仕舞った方が良いものも在るさ。……疲れたろう、少し眠ると良い」
「眠くなんてないわ」
「いいや、眠そうじゃないか。ほら、目が」
老婆の言葉には不思議な力があるようでした。本当に瞼が重くなってきて、女は目を閉じます。
「このまま流れに身を委ねたら、一体何処へ行けるのかしら……」
 底深い砂の海の、深い深い処。其処に眠り続ける記憶が、何時か遺跡のように掘り出されることがあるならば、どうかそっと埋め戻して欲しい——そんなことを思い乍ら、女は眠りに落ちました。
 其れを見た老婆は例の笑みを浮かべました。
「何処へでも行けるさ」
そして女の額の辺りに皺だらけの手を翳します。
「あんたに影の御母の祝福があるように」
 囁くようにそう云った次の瞬間、老婆は指先から細かな砂になって融け始めました。そして隙間風に乗って、さらさらと飛び散って行ったのです。


Ubi solitudinem faciunt,pacem appellant.
彼らは廃墟を作り、それを平和と呼んだ。