ark Arena 1
ダーク・アリーナ 1

 其処は果て無く広がる砂の海でした。
 夜の帳が下りた紺碧の空には銀の月が輝き、砂の一粒一粒がきらきらと、砕ける波のように光っています。
 すると突然、その輝きがサアッと陰りました。ゆっくりと横切る巨大な影——それは舟でした。と云っても、入り口も窓も見当たらない鉄の箱のようです。
 舟の中では大勢の人々が犇めき合って、夫々に考えていました。己がこのような目に遭わねばならない理由、或は、先の見えない未来について——
 女もまた、そのうちの一人でした。黒い一枚布に包まって踞り、舟と己の行く先をぼんやりと考えているのです。
 そこへ、不意に声をかける者が在りました。
「あんた、何処から来たんだい?」
顔を上げると、見知らぬ老婆が同じように踞っていました。
「ナジドよ。と云っても、故郷はずっと外れの小さな村だけど」
「そうかい」老婆は独り言のように云いました。「王都も随分変わったそうじゃないか」
「王の居ない都を王都と呼べるならね」
女は些かの憎しみを込めて云いました。
 すると、老婆は半ば咽せるように笑い乍ら云いました。
「まこと、人の心は沙漠のようじゃ」
老婆は訝る女を余所に、にたり、と笑います。
「灼けるように燃え上がったと思えば、凍えるほどに冷え切る。あらゆるものを貪欲に喰らい、稀に満たされたとしても、直に干上がって仕舞う」
 老婆の言葉に耳を傾け乍ら、女は頭の隅で別のことを考えていました。
(この人、人狩りの標的にしては、年を取り過ぎじゃないかしら)
 その考えを読み取ったのか否か、老婆がぽつりと云いました。
「曾て、儂は或るお方のお抱えじゃった」
「お抱え?」
「魔術師(メジャイ)じゃ」老婆はまたあの笑みを浮かべました。「あんたもそうじゃろが」
女は一瞬身を硬くし、さり気なく周囲を見回しました。けれども囚人たちは疲れ切った様子で、見知らぬ老婆の話など耳に入らないようでした。
 それでも、女は出来るだけ声を潜めます。
「私の力なんて、殆ど無いも同然よ」
「ほう」老婆は笑みを崩しません。「あんた、家族は?」
「母は死んだわ。父も——」
女はそこで押し黙りました。頭の隅に追いやっていた過去が忽ちに膨れ始め、ぐるぐると回り始めたのです。

 或る日、村外れの小屋に、急病で倒れた男が担ぎ込まれてきました。
「俺はもう死ぬのか……?」
「馬鹿云わないで」
男を診た女が云いました。
「大丈夫。薬を飲んで二、三日したら楽になるわ」
「楽になる? 矢っ張り死ぬんじゃないか」
弱気になった男は目を硬く閉じて、ぶつぶつと祈りの言葉を唱え始めます。
 すると、不意に何処からか声がしました。
「死なないわ」
男が目を開けると、枕元に若い娘が立っています。
「あなたは未だ死んだりしない」
「如何してそんなことが分かるんだ?」
男が訊くと、娘はきっぱりと云いました。
「だって、影が見えないもの」
「影?」
 それは何だ、と男が訊く前に、女——娘の母親がぴしゃりと云いました。
「トリス! ……厭ね、この子ったら。時々可笑しなことを云うのよ」
まったく、困ったものね——母親は笑い飛ばし、目の端で娘を睨みました。娘は不機嫌そうにそっぽを向きます。
(嘘じゃないわ。私には見えるんだもの)
死に行く者の魂を喰らう、恐ろしい影の姿が——

「私の母は、村では数少ない癒術師(ヒーラ)の一人だった。けれど、<魔術師狩り>が激しくなった頃、村人の誰かに魔女だと密告されて捕まった」
捕らえられた魔術師たちは拷問を受けたり、火刑に処され、その多くが命を落としました。彼女の母親もまた、そのうちの一人だったのです。
「魔術など信じないと云う人に限って、魔術を一番恐れているのよね」
女は嘲笑を浮かべました。しかし老婆を見遣った時、笑みは消えました。矢鱈とにやついていた老婆が、すっかり無表情になっていたからです。
 僅かな沈黙の後、老婆が口を開きました。
「父親も死んだのか」
「ええ……病気でね」
実のところ、女は父親について詳しく話したくありませんでした。出来ることなら忘れて仕舞いたいとさえ思っていたのです。
 けれども眇の老婆に凝と見詰められると、不思議と隠し事が出来ない気がしました。
(この人に嘘は通用しない)
そう思うや否や、飲み込み損ねた言葉が零れるように出てきました。
「父は昔からだらしのない人だった」
一度零れ始めた言葉は、次から次に溢れます。
「賭け事でお金を擦って、彼方此方に借金を抱えていたみたい。母が連れて行かれた後は益々荒んだわ。毎日お酒を飲んで、仕事もろくにしなくなった——」
 彼女の頭の中に、或る日の出来事が蘇りました。